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多様化の裏側

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多様化と潜伏する差別

性別、人種、思想などあらゆる領域において、異なる属性を有する人同士がお互いを尊重し、平等に扱われる世の中。私は来たるべき多様化社会を“なんとなく”そのような感じで捉えています。おそらく、これまで生きてきた中で、自分の属性を理由に深刻な差別を体験したことが無いため、私にとって多様化社会は、受け入れるべきものではあっても、“切望”する対象では無いのだと思います。

 

多様化社会は、人によって希望に満ちたものであったり、既得権を脅かすものであったりと、人によって受け止められ方は様々だと思いますが、その到達点はどのようなものになるのでしょうか。

 

ところで、私たちの社会や文化は、欧米のそれと比較されることがよくあります。「彼の国に比べて日本は10年遅れている」などと、まるで何十年も研究してきたかのように言う人がいます。自国が遅れていると決めつけてしまうこと自体、多様性を受け入れることと逆行している気がしますが、結論ありきの議論を好む人は、そのことに気がつかないのでしょう。

 

実際に北米に住み子育てをしてきた立場からすると、進んでいる、遅れていると簡単に判断できるものはそれほど多くはありません。あえて文明の利器に頼らずに生活している民族を一概に遅れているとは言えません。伝統を大切にしながら生きている人々にとっては、伝統を守ることが善であり、外部の人間が変化を強いるべきではないのです。

 

他国の良いところを取り入れることも、自国の伝統を守ることも、それらが自分たちにとって相応しいと思えるのであれば、受け入れれば良いだけの話だと思います。

 

彼の地で公民権運動が巻き起こったのは、今から60年余り前のことになりますが、それでも人種問題は解消されませんでした。アジア系やヒスパニック系移民 - 不法移民を含めて – の急増により、富の奪い合いは激しさを増しています。それに伴って、職を失った人々は後発の移民に対して憎悪の念を抱いても不思議ではありません。

 

最近、メディアなどではアジア系住民に対する暴力行為が目立ってきていると言うような報道が目につきます。一部では、新型コロナの発生源を中国だと決めつけて、感染が収まらない苛立ちの矛先をアジア系住民に向けているのではないかと言う論調もあります。他方、変異種の発生源の可能性が高い欧州からの移民に対しては、そのような暴力行為が起きていると言う報道はありません。

 

あくまでも私見ですが、多様な人種が平等に共存することを理想とする裏では、人種差別の意識が根強く残っているのだと思います。差別意識や人種間の妬みなど、爆発のエネルギーが溜まっている状況では、理由など何でも良いのです。攻撃の対象はいつも自分たちにとって気に喰わない立場の者です。人種間の小さな軋轢がいつ大きな衝突となるかは、予断を許さない状態にあります。

 

差別問題への過剰反応

娘たちが現地の学校に通い始めたのは、今から10年以上も前の話です。上の娘は小学4年生、下は小学1年生でした。

 

上の娘が不登校になった話は以前記事に書いた通りです。

lambamirstan.hatenablog.com

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

下の娘は、物怖じしない性格のためか、早々に友人もできましたが、初登校から3か月~4か月経った頃でしょうか、一部のクラスメートから揶揄の対象にされていると娘が妻にこぼしました。どのようにからかわれているのかは、まだ英語が拙い娘には理解できませんでしたが、クラスメートの様子から自分が馬鹿にされていると、何となく分かったようです。

 

当時の私としては、上の娘ばかりか下の娘も学校に行きたくないなどと言われては堪らないと思い、担任の先生と面談することにしました。相談内容を事前にメールで伝えると、その翌日には時間を空けてくれました。

 

その後、娘にクラスメートが手を出すことのないよう、担任補佐の先生が常に娘の傍についてくれたようでした。私はこれで一件落着したものと勝手に思い込んでいたのですが、それから2週間も経たないうちに学校から呼び出しがありました。

 

呼び出しの当日、スクールカウンセラーに案内された応接室では、副校長と担任の先生が神妙な面持ちで私を待っていました。副校長から、今回の一件について説明がありました。クラスメート4人から娘に対して、容姿を馬鹿にする発言があったこと、それがアジア人に対して侮蔑的に使われる言葉であったことから、冗談の域を逸脱していると判断し、当事者であるクラスメートとその保護者に対して厳重注意した。クラスメートの保護者たちからは、娘と私たち夫婦に対して謝罪の機会を与えてもらいたいと学校側に仲介の依頼があった - と言うものでした。

 

私は慌てて、保護者からの謝罪は不要であること、子どもたちが良いことと悪いことの区別をつけてくれれば、それ以上は望まないことを副校長に伝えました。幼い子どもの悪ふざけが、こんな大袈裟なことになるとは、私の予想を超えていました。

 

今度は副校長の方が、私の反応を理解できないと言う表情を浮かべました。「私たちの対応に何か不満でも?」、「保護者は是非謝りたいと言ってきています」。私は、学校の対応と保護者の気持ちは理解出来たので、この件はこれで終わりにしたいと言い、そそくさと面談を切り上げました。私は何となく、こちらが追い詰められたような変な気分になり、居心地の悪いその場から早く立ち去りたい衝動に駆られたのを記憶しています。

 

帰りがけ、カウンセラーが玄関まで見送りをしてくれたのですが、ぼそっと「先生たちは、あなたが弁護士のところにでも駆け込むんじゃないかって心配だったのよ」と皮肉っぽい笑みを浮かべて言いました。「きちんと対応しておかないと、自分たちが差別主義者になってしまうから」と付け加えます。

 

この程度で訴訟沙汰になるなんて、この国の人たちの沸点は低過ぎると驚く反面、そうでもしないと、差別が無くならないと言うことなのだろうかと考えさせられる出来事でもありました。

 

学校には様々な人種の生徒が通っていました。もし、生徒同士の喧嘩や苛めが人種や信仰などの差別だった場合、それを放置したり見逃したりすれば、学校そのものが差別を容認したと取られかねません。そう考えると、日本人の目からは過剰とも思える対応をせざるを得なかったのでしょう。

 

平等を標榜する国も、理想と現実のギャップに苦しんでいるのです。