和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

子どもの教育と親の義務 (3)

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藁にもすがる思い

スクールカウンセラーから紹介を受けた家庭教師 – リズさん – は、私の母親と同年代の恰幅の良い女性でした。数年前まで小学校の教師をしていたと言い、今は他に受け持っている生徒もいないので、こちらの都合に合わせて個人授業を行なえるとのことでした。

 

カウンセラーからは、顔合わせをして気に入らなければ断っても構わないと言われていましたが、彼女の物腰の柔らかさと、のんびりした雰囲気から、この人なら消沈している娘を受け止めてくれそうだと考え、家庭教師をお願いすることにしました。まさに藁にもすがる思いです。

 

正直、この時の私は、妻と娘たちを現地に呼び寄せたことを後悔していました。日本の小学校では、仲の良い友達にも恵まれ、学校に行きたくないなど一度も口にしなかった娘でした。あのまま日本で生活を続けていたら、娘の屈託のない笑顔が消えることも無かったでしょう。

 

家族皆で海外で生活するのは、完全に私のわがままでしかありませんでした。しかし、折角日本を離れて異文化に触れる絶好の機会。きっと娘にとってもプラスの経験になるはず、このまま家に閉じこもる毎日ではもったいないと言う気持ちがありました。私からのお願いとしてリズさんに伝えたのは、できれば娘を学校に戻してやりたいと言うことでした。

 

祖母と孫のような

妻が二階の部屋から娘を連れてくると、リズさんはおもむろに立ち上がって、自分から娘に歩み寄りました。そして、大きな両手で娘の手を引き寄せると、英語の初心者でも理解できるゆっくりとした口調で自己紹介を始めました。そして、自分の紹介を終えると、娘に自己紹介するように促しました。娘は消え入りそうな声で、日本の英会話スクールで何度も練習してきた自己紹介をしました。

 

「上手ね」。リズさんが大袈裟にほめると、娘の顔にはにかむような笑顔が浮かびました。傍から見ると孫娘と祖母のようです。「これで、私たちはもう友達よ」。リズさんは娘の背中に手を添えると、そのまま一緒にソファに腰を下ろしました。私と妻も向かいのソファに腰を下ろします。

 

リズさんは、自宅学習の進め方を説明しました。月曜日から金曜日までの週5日、午後の2時間を個人授業に充てること、出された課題を翌日までにきちんと終えること、日記を書くこと。リズさんは説明の区切りのたびに、娘に理解できているか確認しました。

 

その日は顔合わせだけのはずでしたが、リズさんは娘の学習レベルを確認したいと言って、理科と算数、英語(language art)の教科書の適当なところを娘に読ませたり、問題を解かせたりしました。算数や理科は日本の同学年の内容と比べると驚くほどに易しく、問題が読めて理解できれば苦も無く解けてしまいます。一方で英語は、日本の中学校の教科書以上の内容です。日本で電子辞書を買ってきたのですが、知らない単語が多いと、それらを調べながら文章を読むのは、大人でも疲れてしまいます。ましてや数か月前に英語を習い始めたばかりの小学生にとっては苦痛以外の何物でもありません。

 

リズさんは、読み書きは辛抱強く続けることが一番の近道だと言い、私と妻に向かって、「あなたたちの勉強にもなるはずだから、親子で頑張って」と励まされました。そして、読書量を増やすために、何冊か初心者向けの本を紹介してくれました。

 

娘は、子供心にも、リズさんに見放されたら自分は終わりだと思ったのでしょう。日本にいた頃は、何をやるにも腰が重く、自分から進んで机に向かったことなどなかったのですが、出された課題に黙々と取り組む毎日を送りました。自宅学習は、娘のように自律心が無い子どもには不向きと思っていましたが、そもそも自律心は芽生えるのを待つものでは無く、身につけるものだと知りました。

 

ほったらかしの次女

さて、上の娘が不登校となってから3か月が過ぎようとしていました。その間、下の娘は一人で通学していたのですが、こちらの方は何故か(?)、学校生活に完全に馴染んでいました。

 

もっとも、小学1年生なので、日本にいたとしても、先生や友達と小難しい会話はしていないはず。いつの間にか親しい友人もでき、週末にはお泊り会(Sleep over)にも誘われるようになりました。上の娘はそんな妹をどのように見ていたのか分かりませんが、親としては、二人の娘のうち一方が、放っておいても現地の生活に馴染んでくれたのが心の救いになりました。

 

ある日、スクールカウンセラーから家に連絡があり、上の娘を体育(PE: Physical Education)や図工など、英語が不得手でも楽しめる科目に出席させてはどうかと尋ねられました。妻がすぐに娘にそのことを伝えると、最初は不安そうな表情を浮かべたものの、一緒に聞いていたリズさんからも励まされ、顔を出してみることになりました。リズさんからのアドバイスは、知ったかぶりをしないこと、そして、分からない時はゆっくり言い直してもらうように相手にお願いすることでした。

 

あと2か月もすれば、今年度も終わり(こちらの1学年は8月最終週から始まり、6月の第1週で終わります)。何とか娘に学校に通えるようになってもらいたかった私と妻は、これがきっかけになってくれれば、と祈るような気持でした。

 

焦らずに辛抱強く

現地の学校では、毎年Year Bookが発行されます。一年間の活動の折々を収めたアルバムです。その日は、ちょうど、その写真を撮る日になっていました。カウンセラーから娘に顔を出すよう誘いを受けたのもそのためでした。

 

娘の様子が心配だった私ですが、その日はあいにく抜けられない仕事が入っていたので、妻に娘を学校に連れて行ったら、そのまま様子を見るように頼んでおいたのです。

 

夜遅くに帰宅した私を出迎えたのは上の娘でした。もう寝る時間のはずなのにどうしたのか聞くと、PEの授業で短距離走をやって1位になったと、おもちゃの金メダルを首からかけて大はしゃぎでした。その後ろでは、感極まって涙ぐんでいる妻がいました。やや大げさなリアクションでしたが、私も内心ほっとしていました。

 

スクールカウンセラーやリズさんからは、親が焦って子どもに登校を強いてはいけないと繰り返し言われていました。私も妻も娘に、「じゃあ、明日から普通に登校してみようか」と言い出したい気持ちを抑えていました。

 

翌日の夕方、リズさんからメールが届きました。娘が学校に戻ると言っているので、早いタイミングでスクールカウンセラーに相談するように、とのメッセージでした。私は嬉しさよりも、体を締めつけていた何かが解かれる感覚を覚えました。

 

娘の不登校は4か月に及びました。たかが4か月でしたが、私たち親子にとっては、とても長いトンネルのように感じた時間でした。

 

娘にとっては、不登校の間、リズさんからの個人授業のお陰で、自分で勉強する習慣が身につきました。夏休みが始まり、新学年を迎えるまでの3か月弱の間、娘は学校の補習授業を受けましたが、途中、1週間の家族旅行以外は、勉強漬けの日々を送りました。そして、新学期を迎え、5年生 - 現地の学校では小学校最後の学年 – に進級し、学校に通う毎日となりました。

 

リズさんには、その後も引き続き家庭教師をお願いしていましたが、体力的な理由から、娘が小学校を卒業するのを機に家庭教師を辞することになりました。その後4年足らずでリズさんはお亡くなりになりましたが、葬儀の時に娘は声を押し殺すことが出来ないほどに泣き暮れていたのが印象的でした。

 

多様な選択肢

彼の地ではホームスクーリングは選択肢の一つに過ぎません。先の記事でも触れたとおり、様々な事情で学校に通わずに、あえて自宅学習を選ぶ生徒は思いのほか多いようでした。不登校であることで奇異に見られることはありません。

 

また、学校も、クラスに馴染めないなどの理由で学校に来たがらない生徒に対して、登校するように働きかけを行うことよりも、生徒が集中して勉強できる環境を生徒自身で選ばせることに注力していました。

 

そのため、私たち親子も、学校に行かなければならないと言うプレッシャーに圧し潰されること無く、焦らずに“その時”が来るのを待つことが出来たのだと思います。