和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

様々な真実

信奉の反動

先日、会社のコミュニケーションタイムに先輩社員と雑談をしていた時に、最近亡くなった大江健三郎さんの話題になりました。

 

先輩は、大江さんの熱心な信奉者だったそうですが、沖縄での集団自決を取り上げたルポルタージュ、「沖縄ノート」が名誉棄損で訴えられた裁判と、大江さんの裁判への対応から、「大江信者ではなくなった」そうです。

 

恥ずかしながら、私は、中学生か高校生の時分に一度切り「沖縄ノート」を読んだだけで、また、裁判の経過については新聞記事で知った以上の情報を持ち合わせていなかったので、先輩のように憤慨することもありませんでした。

 

先輩が大江信者でなくなったのは、法廷で自らの主張を述べることが無かった大江さんの対応から、「沖縄ノート」そのものに対する信用が揺らいでしまったことが理由でした。

 

熱心な信奉者であればあるほど、自分が裏切られたと感じた時の反動は強いものなのでしょう。それは分からなくもありません。ただ、小説であれエッセイであれ、作品をどう受け止めるかは読者次第で、作家と作品は切り離して考えた方が良さような気もします。

 

様々な真実

住民の集団自決が、日本軍による強制だったのか否か。生存者や関係者の証言だけを頼りに判断を下すことは容易ではないと思います。大江さんは沖縄での取材の結果、集団自決に軍が関与していたとの確信を持ちましたが、他方、それに反する証言も少なくありません。

 

沖縄ノート」で書かれた“真実”に対し、それを否定する“真実”もあります。同じモノを見ても、視点の数だけ真実は存在するのです。様々な意見を収束させて一つの結論を導き出すのは無理があります。むしろ、私は、作家の主張ありきで証言が集められはしなかったかという点で検証は必要だったのではないかと感じました。自分の考えを裏付けするために都合の良い証跡をかき集めるのは、“ありがち”なことです。

 

ルポルタージュとて、公正中立な視点で書かれた保証などどこにもありません。作家は、手にしたペンで新たな真実を作り上げることさえ出来るのですから、それをどのように受け止めて解釈するかは、詰まるところ読者に託された責任なのだと思います。

トフラーとオーウェル(2)

1984

ジョージ・オーウェルの「1984」を初めて手にしたのも私が中学生の頃でした。アルヴィン・トフラーの「第三の波」は、情報革命がもたらす負の影響とともにそれを乗り越えるためのヒントを与えてくれましたが、「1984」で描かれた近未来には希望の光はありませんでした。

 

もっとも、未来学を扱った学術書ディストピア小説を同列に扱うのは間違いかもしれません。しかしながら、中学生の頃に私にとっては、フィクションだと分かっていても、オーウェルが描く近未来は生々しく、現実味を帯びたものに感じられました。

 

東西の冷戦下だった80年代。社会主義国家では監視や言論統制により国民は抑圧されて生きている一方で、日本や西側の諸国では自由と人権が保障された恵まれた環境なのだと、私は教えられました。

 

それまで、学校や書籍を通じて得た情報や知識に疑問を覚えることのなかった私が、「1984」を読んで感じたことは、「果たして自分は自分の頭で考えているのだろうか」という素朴な疑問でした。

 

1984」の主人公は、政府に対しての反抗を試みるものの、最後は拷問と洗脳により服従させられるのですが、主人公や一部の登場人物を除けば、“その他大勢”は抑圧されていることすら気づかないように巧妙に支配されていたことになります。

 

自分の気付かないうちに洗脳され思考を操作されている可能性はないのか、正義は本当に正義で、悪は本当に悪なのか - 自分がそれまで学んだ、歴史や社会全般の成り立ちを理解するための拠り所たる前提条件に疑問を感じてしまうと、何が本当で何が嘘かが分からなくなってしまいます。そんな怖さをオーウェルの小説から学びました。

 

未来の明暗

SNSや私が今こうして書いているこのブログも、政府やどこかの企業が監視や検閲を行なっているかもしれません。フェイクニュースなどの情報操作によって、私たちは嘘を真実だと思い込まされている可能性もあります。

 

その一方で、トフラーが予言した、情報革命の“正の影響”も生まれています。一元的・権威的だった常識や規範は、より多元的で自律的な価値観に照らされて判断されるようになりました。ライフスタイルの多様化はその表れなのだと思います。

 

情報化を推し進める技術に関して、トフラーは、個人の創造性を高めるために活用されると予言しました。他方、オーウェルは、国家が個人の感情や精神を破壊するために悪用される社会を描いています。私たちは、どちらの未来に進んでいるのでしょうか。

トフラーとオーウェル(1)

第三の波

アルヴィン・トフラーの「第三の波」を初めて読んだのは、私が中学生の頃でしたが、当時の私には“情報革命”と言われてもピンと来るものはありませんでした。そのような社会の大変革が起こるにしても、それはずっと先の未来の話程度にしか受け止めていませんでした。

 

しかし、それから約四十年経ち、トフラーが予見していた、在宅勤務やライフスタイルの多様化は現実のものになっています。私が思っていた“ずっと先の未来の話”ではなかったのです。

 

他方、トフラーは、情報過多や情報格差による社会の混乱、プライバシーの侵害の増加、価値観の対立、人工知能のシンギュラリティについても言及しており(まだ、他にもあったかもしれませんが)、情報革命が及ぼす負の影響あるいは乗り越えるべき課題についても指摘しています。

 

そして、そのような大変革に対応するために、彼は、人々に学習を続けることや再学習の重要性を唱えました。最近はやりの“リスキリング”もこれに通じるものがあるのではないでしょうか。

 

「第三の波」は、何度も読み返している本ですが、内容的に全く古さを感じさせません。むしろ、彼の“予言”した未来を私たちの社会が追いかけているのではないかとの錯覚に囚われそうになります。

 

波に流されないためには

最先端の流行に疎い私でさえ、実生活の中でのネットに依存している度合いは年を追うごとに増してきています。仕事のやり方も大きく変わりました。情報収集は、文献のページを捲るよりもネット検索に頼る方が多くなりました。仕事相手と直接顔を合わせるよりもオンラインで打ち合わせをし、あるいは、実際の会話を端折って、チャットで用件を済ませてしまうことも多くなりました。

 

情報や知識の習得は - 実際にそれらが自分の血肉となっているかは別として - ひと昔前とは比べ物にならないほど時間的・量的に向上しました。その一方で、氾濫する情報の真偽や価値を判断する能力を持つことの重要性は益々高まっているため、受け手側である私たちが学習努力を怠れば、情報の波に流されるだけに終わってしまいます。

 

他者とのコミュニケーションについても、便利な道具を使わない手はありませんが、仕事で言えば、共通の目標や理解していることを折々に確認する手間を惜しまないようにする必要があると感じています。考え方の多様化は、相手の立場を尊重するだけでなく、考え方を理解出来なければ、同じ言語を使っていても意思疎通が出来ない事態に陥ってしまうリスクがあるからです。

 

避けられない波に飲み込まれないためには、自分の足元を固めておく必要があります。(続く)