失敗と教訓 (1)

f:id:lambamirstan:20191026045002j:plain

失敗の積み重ね

失敗を重ねて得た教訓は、教科書で学んだ知識よりも現実の世界で役立つものです。ただし、失敗を積み重ねるだけでは何の教訓にもなりません。失敗から学んだことを、将来に活かせる知見として蓄積していく必要があります。

 

誰でも失敗はしたくないものですが、失敗することで得られるものがあるのなら、それが致命的な過ちとならない限り、自分の成長の糧になるのですから、恐れることなど無いと思います。

 

会社の仕事に限らず、何かに取り組む時には、試行錯誤を繰り返してスキルを身に着け高めていきます。失敗を重ねた先に新しい発明や発見があるのです。ところが、最近は、何かを手に入れるため、あるいは達成感を得るためだとしても、失敗するリスクは取りたくないと言う若手社員が増えてきています。

 

責任回避型社員

先日、私の勤め先で、丸一日かけて管理職研修がありました。もちろん、今や研修と言っても会議室で行うわけではなく、ビデオ会議システムでのリモート研修です。

 

さて、その研修でお世話になった講師の方とコーヒーブレイクにお話する機会がありました。恐らく私と同年代なのでしょうが、非常に気さくな方で、休憩タイムでも私を含めた数名の“受講生”の話に付き合ってくれたのでした。

 

研修のテーマが「部下の育成方法」だったことから、休憩時間の雑談は自然と世代間の考え方のギャップに話が移ります。そんな中で、講師の方から振られた質問がありました。それは、昨年、講師の方が私の会社の若手・中堅社員向けの研修を受け持って下さった時の印象を踏まえたものでした。

 

研修のサブテーマのひとつに、「部下のタイプに合わせた指導方法を考える」と言うものがありました。すなわち、やりがいのある仕事を「達成」することに重きを置くタイプ、早く上に立つ人間になって「権限」を持ちたいと言うタイプ、周囲の人間との「親和」を大切にするタイプ、困難な状況を「回避」しようとするタイプをそれぞれ想定し、そのような架空の部下の特性に合った指導方法をグループワークで議論するのです。

 

そのサブテーマの後の休憩時間に、講師の方から、私の勤め先では「回避」タイプの若手社員が多い気がするが何故なのか、と言う質問を受けたのです。

 

その時、雑談に参加していたのは私を含めて3~4名でした。私の今の部署にははっきりと「回避」タイプに属すると言える部員はいませんが、たしかに、責任を負わされたくないと言う雰囲気を“醸し出している”者はいます。他の管理職も講師の方の質問に頷きはしたものの、「何故なのか」と言う問いに明確な答えを返した者はおりませんでした。

 

多くの企業を回っている講師の方が言うのですから、我が社の「回避」タイプの社員が他社に比べて多いのは間違いないのでしょう。外部の方のそのような指摘に私はショックを受けましたが、私も含め管理職はその原因を分かっているのです。

 

敗者復活の無い減点主義

私の勤め先は、役所からの天下り役員を複数抱え、企業体質も役所らしいところがあります。ほんのひと昔前までは、完全に年功序列の人事が行なわれていたため、現在、表向きは「成果主義」を謳っていますが、年功序列の残滓が取り除かれるには、もう一世代、社員が入れ替わる必要があるのではないかと思っています。

 

そして、年功主義から成果主義へ評価方法を変えることの裏には、人件費抑制と言う目的があります。管理職の減数と昇格のハードルを上げることを推し進めているのは、いわばマイルドなリストラの一環なのです。

 

年功序列人事の下では、ある年齢に達すれば昇格できました。この昇格基準を厳しくするために利用したのが減点主義です。もっとも、減点主義は今に始まったものではありません。事業部門ではプロジェクトの失敗で関係者が責任を取らされたことがありました。また、かつては自分の部下が自己都合で退職した場合には上司としての評価に✖がつきました。そして、一旦“✖”がついた社員は退職するまでその“✖”を背負ったまま会社人生を歩むことになるわけです。しかし、当時の減点主義は年功制度にはほとんど影響を与えませんでした。昇格が1年遅れるなど、減点のダメージは然程大きなものでは無かったのです。

 

ところが、ここ最近の減点主義は、「落とすための手段」として強化されたものになっています。悪意ある言い方をすれば、所定の年齢に達した社員の昇格を、ケチをつけて阻むことなのです。もしこれが、仕事の成果が認められて、飛び級のように昇格するのであれば誰からも文句は出ないと思います。

 

しかし、会社が社員の失敗を論って出世を阻む一方、何も成功させたことが無い代わりに、失敗したことも無い - そんな社員が順調に昇格していく様を見れば、誰も新しいことや困難な課題に挑もうとしなくなるのは当然です。失敗しないこと - これだけを守っていれば、“安全に”昇格できるのですから。

 

また、そのような出世術としての失敗回避だけでなく、失敗すること自体を避けたいと言う若手社員がいるようなのです。件の講師の方から、一人の社員との話を共有してもらいました。

 

その若手社員は、将来何かの役職に就くことなど望んでおらず、逆に、ステップアップのために余計な責任は負わされたくないと思っているのだそうです。また、日々の業務でも、誰かの補助業務は受けるものの、自分が主体となって仕事をすることは避けたい。失敗した時に責められるような立場に置かれたくない。失敗すること自体が嫌だ。そのように考えているようなのです。(続く)

中傷のための中傷、批判のための批判

f:id:lambamirstan:20191026045002j:plain

拒絶か、理解か

自分の考えにケチをつけられて気分が良い人はいないはずです。親切心から良かれと思ってアドバイスされたことでさえ、言い方、受け止め方によっては気分を害したり、修復不可能なほどに人間関係を壊してしまったりすることだってあります。悪気は無くても、物は言いよう。それだけ、物事の伝え方は気を遣うものです。もっとも、大半の人はそのような気遣いを自然と行なっているのではないでしょうか。

 

仕事でも私生活でも、人とのつながりの中で生きていれば、波風を立てずに過ごしたい人がほとんどだと思いますが、ときに、相手の気持ちはお構いなし、と言う自分本位の人間が現れます。自分の考えと少しでも違う人を敵視し、拒絶する。そればかりか、故意に相手の心を傷つけるような罵詈雑言の限りを尽くして、追い込もうとする人間もいます。

 

また、人の揚げ足取りに喜びを感じ、歯ぎしりする相手の顔を思い浮かべて、常に粗探しをする者がいます。人の考えに因縁をつけるだけ。そのような便所の落書き以下のことしか言えない人間は相手にする価値も無いのですが、真面目な人であればあるほど傷ついてしまいます。

 

とりわけ、SNSやブログへのコメントでは、度を越した誹謗中傷を行なう者がいますが、傍から見ても決して気分が良いものではありません。面と向かって相手を批判するほどの度胸が無い者に限って、遠くから石を投げつけ、自分は返り討ちに遭わない安全な場所に身を潜める – そんな、鬱憤を晴らせる場を求めているに過ぎないのでしょう。

 

私はブログを始めてまだ一年足らずですが、日々いろいろな方のブログを拝見し、勉強させられたり、考えさせられたりしています。これだけたくさんの方々がブログを書いているわけですから、自分と近い考え方をお持ちの方もいれば、そうでは無い方もいます。しかし、自分と異なる意見を持っている人がいるのは当たり前のことなのです。私は、人それぞれ考え方が違うということを尊重したいと思っています。それは、私自身が他の人々から自分の考え方を尊重してもらいたいという思いがあるからです。

 

私は自分と違う考えをお持ちの方から話を聞くのが好きです。考え方が違う人間同士でも、大抵の場合はどこか共通した部分、分かり合える部分があり、そこを足掛かりにお互いの理解を深め合えることが案外多いものです。

 

考え方が異なる人に直面すると身構える人がいますが、深く相手のことを知っているわけでも無いのに、最初から敵対ムードになってしまうのは、損な生き方だと思います。こちらが警戒すればするほど、相手にもその気持ちは必ず伝わります。それでは、最初から良い関係になることなど望めません。私は、自分の思想信条を冒されない限り、誰とでも普通に話すようにしたいと思います。

 

自分のことを分かってもらい、そして、相手のことも理解する。簡単なようで意外に難しいことですが、立場の異なる相手を非難したり屈服させたりすることよりも、余程健全な接し方だと思います。自分以外を拒絶すれば世界が狭まり、相手のことを理解しようと努めれば、世界は広がりを見せるのではないでしょうか。

 

批判しないと気が済まない人

誹謗中傷とまではいかないにしても、他人の考えを必ず批判する人がいます。自らの考えを披露するのではなく、誰かの考えに対して批判的なコメントをする。それによって自分のプレゼンスを上げようとしているのではないかと思われる政治家やタレントはいますが、一般人の間ではそんなことは必要無いのではないかと思うのです。もう少し他者の考え方に寛容であっても良いのではないでしょうか。

 

考え方の視野が狭く、持論以外を受け止められる度量が小さいと、結局は自分が損をすることになります。もちろん、それが分かっている人は、自分から好き好んで損することはしません。

 

厄介なのは、発言者の意図することと全く異なった捉え方をされることです。批判しないと気が済まない人間は、言葉尻を捉えて言いがかりをつけてきます。

 

私もかつて、失敗したプロジェクトの総括を役員会で説明した際に、一般的な話として、事業参入時の見通しの甘さに言及したところ、批判好きな役員から、別の特定の役員を非難していると言いがかりをつけられました。

 

当然のことながら、社内での反省会の目的は、“犯人捜し”をすることではなく、未来につなげる教訓を得ることです。失敗が誰のせいかなどの些末なことには誰も関心などないのです。件の説明資料にしても、それだけを読んでも個人を特定することは出来ません。もちろん、本人が読めば自分のことだと分かります。しかし、当の本人ですら、資料の記載内容に“クレーム”していないにも拘わらず、その件に関係の無い人間から文句を言われるというのは、心外以外の何物でもありませんでした。

 

結局、その資料は役員会終了後に回収され、改めて、内容が骨抜きになった資料が最終版として配布されました。本当に馬鹿馬鹿しいことなのですが、意味の無い批判によって真実に蓋をすることもあり得るのですから、無責任な批判は罪が重いと言えます。

感情の源泉 (2)

f:id:lambamirstan:20191026045002j:plain

感情と向き合う時間の必要性

今の職場に不満は無いと言う人は別として、何等かの不満を覚えて、感情を抑えながら仕事をしている人は、日々の仕事に流されずに、忙しく、心に余裕の無い時こそ、自分の感情と向き合う時間を設けるべきだと思います。怒り、疲労、恐怖など、負の感情を抱いているとしたら、それは何が原因なのかを自問することによって、どうすれば解決できるのかは分からないにしても、そのヒントを手に入れることぐらいは出来るかもしれません。

 

自分の感情と向き合うことを避けていると、やがて自分で自分が何を考えているのかすら分からなくなってしまいます。自分の考えがまとまらない、何を考えているか自分でも分からない、そうなると、やがて考えることが面倒になって、考えようとすること自体を諦めてしまうことにもなりかねません。

 

私は、一番多忙を極めた時期、会社で寝泊まりするような生活をしていたことがあります。これは、以前、別の記事で触れましたが、駅のホームから電車に飛び込んだらどんなに楽かと、変な気を起こす寸前まで来たことがあります。

lambamirstan.hatenablog.com

 

当時は、自分の気持ちを見つめる時間も余裕も無く、目の前の仕事をこなすことで頭が一杯でした。そうなってしまうと、感情の無いロボットと同じです。山積みの仕事を前に心にゆとりが無くても、自分の感情というものはそこに – 自分の中に – あるのです。それをほんのわずかな時間でも構わないので、掬い取ってあげることは、自分を見失わないために必要な行為だと考えます。

 

もし、忙しくて、わずかな時間すら作れない、そのようなことを考えること自体煩わしい、という状態だとしたら、思い切って仕事を休むべきです。自分の感情と向き合う時間はそれだけ大切な意味を持つのです。

 

感情の源泉

他人の心の中など覗き込むことは出来ませんが、自分自身の心の中を見ることは可能でしょうか。自分の、今抱いている感情がどこからやって来たのかを正確に言える人はどれだけいるのでしょうか。

 

何となく朝からイライラする。脈略無く不意に、何かにぶつけたくなるような怒りを覚える、突然物悲しくなって涙が止まらなくなる。そのような経験を人に話すと、“情緒不安定”の一言で片づけられたり、心配顔で「病院で診てもらったら」などと言われたりすることがあります。

 

しかし、映画やドラマ、小説などを見たり読んだりしていて、登場人物に自分の感情がシンクロしてしまい涙が溢れたり、絶望的になったりした経験は誰でもあると思います。感情がそのように共鳴するものだとすると、訳もなく悲しくなったり、やり場のない怒りを覚えたりするのも、どこかにそのような感情を震わせる原因があるのではないでしょうか。

 

自分の頭では、もう済んだこと、終わったこととして片づけたつもりのことでも、潜在意識の深いところで滓となって残っているもの。それが不意に感情を共振させている可能性があるかもしれません。

 

成功体験は、一時の歓喜を得られるものの、高揚感は長く続くものではありません。逆に負の体験は、努めて払拭しようとしても、いつまでも引き摺ってしまう。忘れたと思っていたら、ふとした瞬間に前触れも無くフラッシュバックしてきた、という経験は誰でも持っていると思います。

 

私の拙い経験では、自ら招いた失敗は、それを直視して反省することで消化することができます。他方、自分ではどうしようもないこと、例えば、同じ仕事の失敗でも、他者から責任を押しつけられたり – あるいは、押しつけられたと思い込んだり - 、親子や親族内でのトラブルなどは、自分で納得のいく解決に至らないことがほとんどで、無理に心の奥にしまい込んでしまうことが多いと思います。

 

そのような経験自体は、努力して忘れられたと自分では思っていても、当時抱いていた憎悪や失望などの負の感情だけが何かの拍子に息を吹き返すのです。

 

私も父との葛藤や、仕事を干されたときのやり場の無い怒りや恨みを今でも思い出すことがあります。過去のことをいつまでも引き摺るとは、料簡が狭いと思われるかもしれません。しかし、これが未だに払拭できない私の負の感情なのです。

 

ただし、かつての私と今の私の違うところは、そのような負の感情に無理に蓋をしなくなったことです。負の感情とその原因となる経験は、忘れたくても忘れられるものでは無いこと、また、自分の意思とは関係無く気まぐれに心の底から湧き上がってくることを知りました。従って、今は、そのような感情が浮かび上がってきた時には、首を振って無理に気を紛らわそうとせず、むしろ、当時どのような気持ちだったのか、どのように整理しようとしていたのかを冷静に思い出すようにしています。

 

良い経験、悪い経験を積んだ結果が、今ある自分であると言うことを認められれば、負の経験から生まれた感情をも受け入れられる時が来ると思います。