親の思いと子の気持ち

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親の背中

私たちの長女は、今年就職しました。自宅通勤なので、親の目から見ても、朝早めに起きる以外は学生時代とあまり変わりません。次女は大学2年生。今年はコロナ禍のため、まだ一度も大学へは行かず、オンラインで講義を受ける毎日です。

 

妻は、先月半ばから通常出勤となりましたが、不規則なシフトでの勤務なので、休日はマチマチです。私は、基本的に在宅勤務で週1~2日出社、と言う感じで仕事をしています。

 

そうなると、自ずと私と次女の家にいる時間が長くなり、夕食の支度も二人で手分けしてやることが多くなります。私が作る食事は、料理本を見ながらレシピに忠実に、と言うのではなく、冷蔵庫にあるものを見て、その日の気分で料理すると言う、行き当たりばったりな品々です。次女はそんな私の料理作法(?)を見て育ったので、やはり父親と同じような料理を作ることになります。

 

こんな一面だけで判断はできないかもしれませんが、子供はやはり親を見て育つのではいかと思います。台所に立つことを子供に強制したわけでは無く、面白そうなことを手伝っているうちに、いつの間にか料理ができるようになったのです。

 

もう一つ。次女は小学1年生のときに日本を離れ、その後徐々に漢字嫌いとなってしまい、小学4年生レベルの漢字しか書けないようになってしまいました。そのことが本人にとっては劣等感となり、益々漢字の勉強から遠ざかっていました。親としては、事あるごとに娘に漢字の勉強をするように促していましたが、全く効果がありませんでした。

 

しかし、去年から妻が漢字検定の勉強を始めると、不思議なことに次女も漢字の勉強を始めていました。妻が勉強している後ろ姿を見て、何を思ったのか。いずれにせよ、親が手本を見せるというのは大切なことだと思いました。親が口であれこれ言うよりも、自分でやってみてその姿を見せることの方が、子供のやる気を引き出すのではないかと思いました。

 

自分のことは自分で決める

そんな次女ですが、数年前までは大変な時期にありました。とにかく周囲の大人たちへ反発していました。まるで、全方位敵に囲まれた兵士のようでした。私たち夫婦にとっては、長女も反抗期、次女も反乱期という時期が2~3年重なった数年前が暗黒時代でした。

 

特に次女は、海外から帰国したばかりで、日本語が不自由な状態でしたので、学校の先生とも意思の疎通がうまく取れませんでした。また、駐在中の現地校では体験したことの無かった“同調圧力”にも辟易していたようで、クラスメートからも孤立していました。

 

そのようなストレスの捌け口は親しかいません。私も妻も八つ当たりの標的となりました。私は、自分の仕事の都合で長い間日本を離れ、妻や娘たちにいろいろな面で不自由な思いをさせてしまったことに負い目を感じていました。特に次女はまだ小学校に上がったばかりの頃から中学3年生までの多感な時期を海外で過ごし、期待に胸を膨らませて帰ってきた母国で自分が身を置く場を失っていたことに落胆していました。そんな彼女の姿を見ると、反抗的な態度を取っても、どうしても叱る気になれませんでした。

 

次女は何度も同じ言葉を吐きました。「自分のやりたいようにやらせてほしい」。言語学を学びたいから大学に進学したい。そんな娘の希望に、学校の先生は、「あなたの入れる学校は無い」と言い放ちました。代わりに勧める学校は偏差値を基準に、「入れそうな学校」でした。先生からは、「専願で受験すれば合格できる」と言われた学校でしたが、娘は首を縦に振りません。

 

自分のことを自分で決めて何が悪い。何故受ける前からダメだと決めつけるのか。合格する可能性が低いと受験を諦めなければならないのか。娘の問いかけに先生は何一つ明快な答えを出せませんでした。親である私たちも同じでした。

 

見放された者を拾う者

結局、先生はさじを投げ、娘は自分の志望する大学をAO入試で挑戦することになりました。妻と娘はそれ以前からぶつかり合っていましたが、学校の先生からも“見放されてしまった”ことから、二人の間はさらに険悪な状態になりました。

 

ところが、その頃すでに反抗期が終わっていた長女が、次女の良き理解者になってくれました。親には話せない愚痴や悩みも自分の姉には素直に話せたのだと思います。私も娘のことを信用しようと思うようになりました。何か根拠があったのかと言うと、そんなものはありません。しかし、これまで育ててきた娘を信頼できないということは、自分たちの子育てを否定することになると考えたのです。次女の選んだ道を批判するのでは無く、応援する立場に立とうと決めました。それから、妻も口出ししたい気持ちをぐっと堪えて、次女を見守るようになりました。

 

先生に見放された次女は、長女が家庭教師役を買って出てくれたおかげもあり、毎日夜遅くまで勉強していました。あんなに集中力がある子だとは知りませんでした。

 

秋に行われた入試は見事合格でしたが、娘はあまり嬉しそうな素振りを見せませんでした。本人曰く、「受かるつもりで受けたから当然の結果」だと。もう少し可愛げのある言い方ができないものかと思うのですが、喜びの感情を表に出さないのがかっこいいと思っているのかもしれません。

 

親の思いよりも子供の気持ち

自分が決めたことは何としてでもやり遂げたい、と言う次女の性格。おそらく、幼い時から彼女の行動にあまり口出しせず、自分で考えるように仕向けたことも理由の一つではないかと思っています。次女が生まれた時には、3歳になる長女がおり、私たちは、次女は長女を見習って育っていくだろうと、自分たちの都合の良いように考えていたのです。

 

しかし、その頃の長女は、今思えば、決して誰かのお手本になるような子供ではありませんでした。

 

長女が小さい時には、何かにつけ親が先回りして身の回りの世話をしていました。朝起きて、服を着替えさせてやり、食事中も口の周りを汚せば、ティッシュで拭いてやり、夜寝る時もパジャマを着せてやり・・・。本当は自分でやらなければならないことを、親が全て先回りしてやってあげていたのです。

 

また、習い事も然りです。長女は、妻が勧めた習い事を嫌な顔せず通い続けましたが、自分で「あれをやりたい」と言って始めたものが無いのです。そんな調子で、次女が生まれるまでの三年間を過ごしてきた長女にとって、自分で考えて自分で親にお願いして何かをするといった経験が完全に欠落していました。

 

結果、長女は依頼心の強い子に育ってしまいました。長女はここから、自分の意思で行動するという当たり前のことができるようになるまで、とても苦労しました。親としては、良かれと思ってやったこととは言え、娘を苦しめてしまったことは、大いに反省しているところです。

 

子育てはやり直しがききません。手を掛け過ぎてしまった長女と、手を掛けなかった次女。持って生まれた性格もあるのでしょうが、親との関わりは、生後に取得する物事に対する考え方や、自分の意思というものの捉え方に大きな影響をもたらすものだと思います。

衣食住の住

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生活の場をどのように捉えるか

衣・食・住。生活を考える上でどれも大切な要素ですが、その中でも「住」は生活の基盤であり、家族の間でも、それぞれの価値観がぶつかり合う可能性の高いものだと思います。知人や会社の同僚がどこに住んでいるのか、どんな家に住んでいるのか気になって仕方がないという人も少なくないようです。

 

しかし、自分の住む場所は自分と自分の家族にフィットしていることが最も重要な条件であり、誰かと競い合って自慢するためのアクセサリーではありません。初めの一歩でそこを勘違いしてしまうと、家探しは残念な結果となるでしょう。

 

住む場所は、家族構成や年齢によって、生活の拠点をどこに置くかがおおよそ決まってきます。会社勤めをしていれば、通勤の便、子供が学校に通っていれば通学の便。通勤通学を優先させると、居住空間での妥協が必要となり、逆に、通勤通学にかける時間の許容範囲を広げれば、より郊外の、ゆったりとした地域に家を買える可能性が高まります。

 

また、そこでも、最寄駅から家までの距離や、買い物の便、医療機関へのアクセス、自然災害に対する強さなど、様々な要素によって選択肢の幅が変わってきます。

 

前回の記事で、お金の使い方のメリハリのことを書きましたが、家探しでも、生活の拠点を決めるためのいろいろな要素に優先順位をつけメリハリをつけないと、どれも決め手に欠けて選ぶに選べないと言う事態に陥ります。

 

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私は仕事柄、数年ごとの転勤がつきものだったため、結婚してから自分の家を買うまでの約25年間は、国内の社宅と海外を行ったり来たりの生活でした。

 

さて、そろそろ社宅の年齢制限も近くなり、自分の家を持たなくてはと考え始めた時、いろいろな選択肢がありましたが、最終的に判断の基準となったのは、妻、2人の娘、そして私の4人が、それぞれ新しい住まいでどのように暮らしたいのか、という点でした。

 

我が家の場合、平日・休日問わず、家で過ごす時間の多くはリビングあるいはダイニングといった“お茶の間エリア”です。自分の部屋に籠ることがほとんどありません。また、友人・知人を家に招くこともありません。親戚を呼んで泊まってもらうことも無いので、普段使わないような客間も不要。庭仕事が趣味と言うわけでは無いので、庭もいりません。車も持たないので駐車スペースは必要ありません。

 

そんな感じに、自分の家のライフスタイルを見直してみると、家族それぞれの部屋は寝るスペースが確保できれば良し。しかもベッドではなく敷布団であれば、それほどの広さは必要になりません。その代わり、家族が家にいる時間の大半を過ごすリビングは圧迫感の無い程度の広さを確保する、と言った具合に、自分の住処に対する“メリハリ”が分かってきました。

 

「家族4人なら、こういう間取りの家」と言う決まりはなく、それぞれの生活の仕方次第で家に求める機能も変わってきます。また、家族も年と共に変わっていきます。娘たちもいつまで一緒に暮らすか分かりません。最終的に夫婦2人になることも想定して家作りを行いました。

 

「あの人が済んでいる家より小さかったら恥ずかしい」とか「あの人があそこに住んでいるのに、それより遠くに家を買いたくない」などと、他所の家をものさしにしてしまう悲劇を想像しましょう。

 

ライフスタイルと優先順位

私は年齢的にも、今住んでいる家を終の棲家と捉えています。しかし、これも人によって考え方は様々。家は買わずに賃貸で、その時々に応じて住む地域や物件を選んで動き続ける方が性に合っていると言う人がいてもおかしくありません。また、家は買ったけれども、老後は介護付きのマンションへの引っ越しを考えている人もいるでしょう。何が自分のライフスタイルに合っているかは誰かに決めてもらうものでは無いのです。

 

家族の成長に合わせて家を買い替えて行くのも一つの方法です。もし、ローンを組むのであれば、若いうちが良いのでしょう。しかし、かつてのように土地さえ持っていれば何とかなる時代ではありません。ローン返済ができなくなったら家を手放せばいいと言うのでは、解決策にならないと思います。高度成長期からバブル期であれば、土地の価値は勝手に上がっていってくれたので、借金をしてでも土地を買おうとする人が多かったのです。そのような、“持っているだけで金持ちになれる”と言うような土地神話はもはや過去のものです。

 

従って、投資目的や将来転居することを前提とした土地購入は、エリアや立地条件を十分に調べておかないと、買い物損の結果が待っていることとなります。逆に、終の棲家のための土地で、地価の値上がり期待など関係無しと言うことであれば、選択肢を広げることができます。ただし、かつての新興住宅地が高齢化や過疎化によって、その価値を毀損しているだけでなく、住みやすさまでをも失ってしまったケースもあることには注意が必要です。

 

通勤通学、生活利便性、自然災害リスクなどチェックポイントは様々。自分が生活する場所としての条件を挙げ、各条件の優先順位を決めてターゲットを絞り込んでいくことが大切だと思います。

 

ちなみに、私の拙い経験ではありますが、土地・家にいわゆる掘り出し物はまずありません。同じようなロケーションにあるのに周囲よりも安い物件があったとすれば、何らかの理由があると思った方が良いでしょう。そう考えると、自分のチェックポイント全てを満たすような物件は ‐ 特に大都市圏では ‐ 高価となり、手が出しづらくなると思います。そのため、条件の優劣を決め、「絶対に譲れない条件」を絞り込むことで、相対的に候補物件の幅を広げることが得策だと考えます。

使うお金のメリハリ

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これからの時代の借金

いつの時代も、「一寸先は闇」なのは変わり無いのでしょうが、特に今年ほど ‐ まだ折り返し地点を過ぎたばかりですが ‐ その言葉を強く感じたことはありません。私が就職してからの約30年も山あり谷ありでしたが、今年は、コロナ禍によって働き方が大きく変わったこと、経済の先行き不透明感が一層高まったことから、数年後に振り返ってみると、生き方を見直す転換点だった年になるのではと思っています。

 

さて、先日会社の部下から自宅購入を考えているという話を聞きました。買う時期は、もう少し頭金を貯めて、2~3年後を目途にと言うものでしたが、30年程度のローンを組んで大丈夫かと私に聞きました。

 

私はファイナンシャルプランナーでもありませんし、他所の家の台所事情も分からないので、大丈夫かどうかは分かりません。ところが、的外れな質問を聞き返そうと思ったのと同時に、彼の真意が分かりました。

 

2~3年後ということは、彼も40代に差し掛かります。そこから30年のローンを組むとなると完済時期には彼は70代になっています。彼は、自分が退職し、再雇用嘱託として期間満了となる65歳までうちの会社が生き残っているかどうかを知りたかったのでした。

 

会社の寿命など誰にも分かりません。もし、明日にでも倒産しそうな会社だとしても、それを知っているのは経営陣とコーポレート部門の限られた役職だけです。そう彼に話すと、軽くため息を吐いてうな垂れてしまいました。普通の管理職だったら、会社の寿命を聞かれたら「大丈夫」で押し通すのでしょうか。私は嘘を吐くと顔に出てしまうので、心に思っていることと違うことは極力言わないようにしています。

 

うちの会社に限らず、このご時世、一部を除いて業績が下向きになる企業が多いはずです。もちろん、長い目で見れば、コロナ禍の影響は思ったほど深刻では無かった・・・と言える可能性もあるのでしょうが、コロナ禍のような想定外の事態が無かったとしても、30年~40年存続する会社は案外多くは無いと思います。

 

もちろん、これから先、同じ会社で働き続けることが、かつてほどの価値を持たなくなることを考慮すれば、今勤めている会社の30年後を心配する必要も無いでしょう。それよりも、今後の景気次第では、思い通りの転職が困難になるリスクが高まるわけで、そちらを気にした方が良さそうです。

 

高度成長期で、かつ、終身雇用が守られていた時代なら、どんなに長いローンを組んでも、会社で不祥事さえ起こさなければ、返済の不安要素はほぼゼロに近かったと思います。しかもインフレのお陰で、ローンの負担感は年々軽くなったことでしょう。

 

翻って、今の時代に30年もの長期ローンを組む自信が持てるでしょうか。我々の両親あるいは祖父母の時代とは環境が違い過ぎます。

 

家を買うのも“つもり貯金”

私たち夫婦は、バブル崩壊後しばらくして結婚したのですが、当時、もはや給料が右肩上がりに伸びることなど期待できず、生涯収入がどの程度見込めるのか想像できませんでした。

 

そこで、私たちはローンを組んでまで家を買うことはしないことに決めました。将来、家を買うか、賃貸にするかは決めていませんでしたが、まずは、“ローンを組んだつもりで”将来の住居取得費のための積み立てを始めました。借入元本に当時の一般的な住宅ローン金利を使って、元利均等で毎月の返済額を計算して、それを積み立てて行きました。将来のどこかの時点で家を持たないことに決めれば、積み立ては中止です。

 

あくまでもローン返済のつもりで行なっているわけですから、強制的に積み立てられなければ意味がありません。私の場合は、銀行の積立預金を使いましたが、積み立てられれば、投信でも会社の財形貯蓄でも何でもいいと思います。

 

そんな具合につもり貯金を行うと、実際には外部流出しない支払金利分だけ早く目標額に達することになります。私たちが積み立てを始めた頃の住宅ローンの金利は、今とは比べ物にならないほど高かったため、30年ローンのつもりで積み立てをすると約20年で元本分が貯まりました。

 

現在の住宅ローン金利は低いですが、支払利息は少ないに越したことはありません。自分たちの生活の役に立つコストではないわけですから、目標額の積み立てが無理だとしても、できるだけ頭金を増やして、借入金を少なくする努力はしておきたいところです。

 

使うお金のメリハリ

将来の大きな買い物のために、貯蓄に励むことは悪いことではありませんが、家を持つことだけが人生の目標では無いはずです。稼げるお金に限りがあるとして、それの配分方法次第で生活の豊かさも変わってきます。

 

その過程で、持ち家よりも賃貸の方が自分に適していると考えるのであれば、それが自分にとっての最適な解となるのでしょう。どちらが良い・悪いの話ではありません。それぞれの生き方に合った選択を行うだけの話で、「同僚が家を買ったから、うちも・・・」という発想の方が変なのです。自分の価値観やライフプランと照らし合わせて、持ち家より生涯賃貸の方が適している人もいるはずで、周りを気にしながら家を買うべきか、賃貸にすべきかを判断するものではありません。

 

また、家を買う場合でも、その時期は自分のライフプランによります。「同級生が家を買ったから・・・」というのは、自分が家を買うタイミングではありません。

 

子供の教育費にしても、いろいろな習い事をさせてやりたい、受験に有利な私立の学校に通わせてやりたいというのが親心なのかもしれませんが、それで家計が逼迫してしまっては、元も子もありません。子供に何を習わせて、どんな学校に通わせると親の手を離れるまでにいくらかかるのかを調べずに、行き当たりばったりでお金を使っていると、後で首が回らなくなります。

 

住宅資金、教育費、自己投資や趣味など、それぞれにどのくらいお金を配分するかをできるだけきめ細やかに考えることができると、毎月、毎年の資金計画を立てやすくなりますし、貯蓄へのモチベーションにもなります。その際に、自分たちにとって絶対必要なもの、できれば手に入れたいもの、不要なもの、と選別することにより、何にどれだけお金をかけるのか、メリハリをつけることが、限られた財源を有効に使う方法だと思います。

人種差別デモ 何のための抗議なのか

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略奪でガス抜き?

米国ミネソタ州の人種差別デモをしばらくチェックしていたのですが、ここ数日あまり大きく取り上げられることが無くなりました。

 

今回の発火点はミネアポリス市でしたが、抗議活動は全米の主要都市に飛び火しました。メディア等のニュースでご存じの方も多いと思いますが、純粋な抗議活動を超えた暴動や略奪行為も報じられています。スーパーやショッピングモールの扉をこじ開けて乱入する暴徒を見て、これが正当な抗議活動だと信じる人はいないでしょう。どう考えても、この機に乗じて略奪を行うつもり満々としか見えませんでした。

 

このような略奪行為を、人種差別によって抑圧された人々のガス抜き的なもの、と寛容な理解を示す必要など全く無いことは明らかです。また、今回のデモは、白人警察官が黒人被疑者を拘束する際に窒息死させてしまったことが発端ですが、これを、「白人による黒人殺害」と捉えるか、「警察官による被疑者殺害」と捉えるかによって、受け取る印象が全く異なります。

 

問題の本質を見極めているか

たとえば、「白人警察官による白人被疑者殺害」、あるいは「黒人警察官による黒人被疑者殺害」だとしたら、これほど大きな講義活動が繰り広げられていたかと言うと、私は懐疑的です。例えば、被疑者がアジア系だった場合はどうでしょうか。

 

私は、今回の白人警察官の行為を擁護も非難もするつもりはありません。材料が少ないからです。警察官が、身柄拘束の際に被疑者を死に至らしめたと言う事実は変わりありません。しかし、見方を変えると、警察官が手加減し、被疑者に逆襲されるリスクも否定できません。そして、当の警察官が、“被疑者がなんとか隙を作ろうと、苦しんでいる振りをしている”と思っていた可能性だってあるわけです。

 

また、報道にあるように、死亡した被疑者は重罪前科者でした。一部ネット上では、それを理由に、少々手荒に扱われても止む無しという見方もあるようですが、これは的外れな話で、初犯であれ重犯であれ、身柄確保時の扱いに差があってはならないはずです。これは人種の違いで扱いに差があってはならないことと同意です。

 

様々な状況証拠を集めた上で検証しない限り、今回の事件が、本当に白人警察官の黒人蔑視による犯罪行為か否かは判断できないはずで、その判断の過程をスキップして人種差別問題にしてしまうのは、個人的に違和感を覚えざるを得ません。

 

何が問題なのかを正しく見極めずに論点をすり替えてしまうと、本来改めなければならないことが、置き去りにされてしまう恐れがあります。今回の場合、警察官側に黒人蔑視があったと言う確固たる証拠が出てくるまでは、人種問題とは関係の無い、被疑者逮捕時における身柄拘束方法の妥当性の問題に尽きると考えます。

 

もっとも、あらゆる問題が、人種差別の方向に導かれる傾向自体が、米国の抱える問題の本質なのかもしれません。

 

キング牧師の夢 アメリカンドリーム

ところで、米国のことをあまり勉強せず、「自由と平等の国」で一旗揚げようと彼の地に向かった人は、おそらく、依然として人種差別が残っている現実に驚き、失望するかもしれません。公民権法が制定されてから50年余り経っても、米国は人種問題に苦しみ続けています。

 

リンカーン大統領が奴隷解放宣言に署名したのが1863年、その100年後の1963年にキング牧師が、あの有名な“I have a dream”の演説を行います。

 

キング牧師の言葉は、アフリカ系アメリカ人公民権獲得の困難な行く末を見据えた上で、なお、希望に溢れるものでした。演説の中盤、「私には、アメリカンドリームに深く根差した夢がある」で始まるその下りが、今でも語り継がれるのは、そこに理想とすべき自由と平等が描かれているからだと思います。

 

アメリカンドリーム」は、“成功のチャンスは、努力する者全てに平等に与えられる” ということです。演説で語られるキング牧師の夢はとても映像的で、聞く者が頭の中で容易の思い描けるものです。以下は私が一番印象的と感じた一節です。

 

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.” (私には夢がある。いつか、ジョージアの丘陵の上、かつての奴隷と主人の子孫たちが、同胞としてともにテーブルにつくという夢だ。)

 

ジョージア州では、かつて奴隷を利用して農園経営を行っていました。赤土の丘陵は同州の象徴的な田園風景。1960年代前半のアメリカでは、学校や乗り物、レストラン、果てはトイレまで白人と黒人は区分けされており、厳然たる差別が残っていたことを考えると、キング牧師の言葉の重みが伝わってくると思います。

 

しかしながら、注目したいのは、キング牧師の願いが、かつて自分の祖先たちが味わった辛苦の恨みを晴らすことでは無く、同胞として対等な立場を求めていた点です。そして、それをあくまでも非暴力的に達成しようと試みたのが1960年代前半の公民権運動でした。

 

今回のミネアポリスを始め全米各地のデモの全容は、メディアの報道だけでは判断できないので何とも言えませんが、一部の略奪行為や暴動を働いた者たちを正当化する理由は見当たりません。天国のキング牧師はこれを見てどのように思われるのでしょうか。

ニューノーマルが崩れていく

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緊急事態解除後の緩み

私の勤め先では、まだ在宅勤務が続いているのですが、これまでの「不要不急の出社は控える」というものから、「自宅でできる仕事がある場合には、在宅勤務を推奨する」と一歩後退しています。

 

今週は事務所内の引っ越しがあったため、在宅勤務期間の中で久しぶりに出社率の高い1週間となりました。ほぼ3か月間、モニター越しでやり取りしていた部員の元気な姿を見て、内心ほっとしました。

 

実は、私は在宅勤務開始以降、「会社を辞めたい」と言ってくる者が出てくることを恐れていたのです。部員に対しては、私としての最大限のフォローをしてきたつもりですが、それは文字通り「つもり」でしかありません。自分の思いが、相手の心に届いているのか確信を持てない。そのことを歯痒く感じていました。

 

さて、引っ越し作業のため出社していると、若手の部員からクレームが入りました。話を聞くと、事務所内でマスクをせずに歩き回っている社員が複数 ‐ それも 少なくない人数 ‐ いるとのことでした。私は、今一度マスク着用の徹底を社内に周知するよう、総務に連絡しました。

 

駅や電車内でマスクをしていない人はほとんど見かけませんが、会社を自分の家と勘違いしているのか、出社すると、外出したり退社するまで、マスク無しで動き回っている社員がいるようです。

 

緊急事態宣言が解除されて1か月経ちますが、これを終息宣言の一歩手前のように思っている人が多いのではないかと感じています。宣言解除の当初は、しっかり守られていたソーシャルディスタンスも、なおざりになり、また、公共の場の人混みも緊急事態宣言以前に戻りつつあります。

 

収まるように見られた新規のコロナ感染者数が、じわじわと増え始めていますが、窮屈な「新たな生活様式」に辟易している人が多いのも事実で、そういう人々にとっては、宣言解除によって緩んでしまったウィルスに対する警戒感を取り戻すことは、容易では無いような気がします。

 

我が社の社員も同じで、大人数が集まれば、その中には緊張感の無い人間もいます。「原則在宅勤務」から、「在宅勤務推奨」に変わっても、家で仕事ができるのであれば、今までと何も変わらないはずなのですが、ここで必ず上の者に忖度する社員が出てきます。どうしても会社に来たいと言う役員や社員を止めるつもりはありませんが、弱い立場の社員に同調圧力をかけるのは止めるべきでしょう。

 

所内の引っ越しで「全員集合」となった私の部署でしたが、翌日からは、また在宅勤務に戻りました。もちろん、部員によっては、会社でないと対応できない業務もあり、止む無く週の内1日くらいの頻度で出社する者もいますが、「原則在宅勤務」は継続するようにしています。

 

いつも予防の心得を

以前、コロナ対策には、外出自粛よりも予防策の啓蒙が必要と言う記事を書きました。

 

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ここ数日の新規感染者数の増加傾向が、第2波かどうかはともかく、「ウィルスに感染しない」、「万が一自分が感染しても、他人にうつさない」ことに気を配るのは、何ら新しいことではありません。

 

人の心情として、2か月近く自粛していたことが、ようやくできるようになったのに、すぐまた行動を制限されるとなると、簡単には納得できないかもしれません。そうであるならば、「新しい生活様式」について国民一人一人に周知徹底すべきではないかと思います。

 

国、あるいは自治体レベルでの移動制限などが再発動される可能性は定かではありません。そろそろ経済優先に向かわないと持たなくなる、と言うところかもしれません。

 

行政に対して文句を言うのもいいでしょう。しかし、それよりも、今一度、自衛手段の再確認をする方が有用ではないかと思います。

 

さすがに、マスクの高騰や品薄が再発するとは思えませんが、品質の良い品物を適当な価格で買える時期を見逃さないというのは大切なことです。

 

また、可能な限り在宅で仕事をするようにしましょう。通勤、そしてオフィスと言う密閉空間での感染リスクを避けるための、一番簡単で効果のある手段です。

 

緊急事態宣言が再発出されるか否かに関わらず、新規感染者が増える傾向に対して、目を背けてはなりません。

本心はどこにある? (2)

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独りの世界

思考実験と言うほど大袈裟なものではありませんが、野中の一軒家で独り暮らしをすることを空想してみます。

 

食料を始め、生きて行く上で必要な物は全て整っています。何か買い物がしたければ、通販で手に入れられます。訪れる客はいません。他者の目を気にする必要もありません。何をしようと文句を言う者もいません。また、ブランド品を身に着けても、見せびらかす相手がいません。

 

家から一歩も出なくても、誰とも付き合わなくても生活できる環境に身を置いたと仮定して、自分だったらどのように生活するかをイメージできるでしょうか。

 

身だしなみを気にする必要が無いわけですから、散髪もお化粧も不要。服に気を使うことも不要です。仕事をする必要が無ければ、何時まで起きていようと、何時まで寝ていようと自分の勝手です。

 

そのような空想をしてみると、自分が実はとんでもなく怠惰なのか、自律的な人間なのかが分かってくるのではないでしょうか。ちなみに、私はどちらかと言えば怠け者に属するようです。

 

他者の目を気にする必要が無い、見栄を張る必要が無い状況に身を置いて、これが自分だと思える姿が素の自分なのではないかと思うのです。

 

例えば、独りで生活全てが完結し、何の不自由も無いのであれば、勉強なんかしたくない、就職なんかしたくない、という考えが湧いてくるかもしれません。また、誰かと付き合うことも、ましてや結婚もしたくない、独りの方が気ままだ、というのが素の自分なのかもしれません。

 

あるいは、逆に、本当の自分は、実はこういう学問を極めたかった、こういう仕事がしたかったと言う思いが湧いてくるかもしれません。また、独りの方がきままだと強がっていたけれど、本当は誰かそばにいてほしい、というのが本当の自分なのかもしれません。

 

見栄を張る相手がいないのであれば、本当は高い車なんか買いたくなかった、高いブランド品なんか欲しくはなかった、こんなことにお金を使いたくはなかった、というのが本音かもしれません。

 

こうして、素の自分が語り始めると、ときとして、自分の弱音に触れることがあります。「平静を装っているけれど、今こうして頑張っているのは、自分自身に対してかなり無理を強いている。けれど、そんなことは、どんなに親しい間柄、自分の家族にさえ言えないこと、言いたくないことだ、そんな弱音を吐くなんて恥ずかしい」 ‐ そんな泣き言を素の自分が白状するかもしれません。

 

しかし、“そんな泣き言”こそ、ありのままの自分の思いに違いないのです。そこまで自分に正直になって、初めて“素の自分”にたどり着くのだと思います。

 

理性や道徳心を抜きに、この世で生きて行くことはできませんが、素の自分にたどり着けないと、自分の軸足が定まりません。自分に正直になることは、なにも怖いことではありません。

 

再び自分のものさしを考える

親が承諾しないという理由で、結婚を先延ばしにした者は、相手から愛想を尽かされました。また、すでに関係が破綻しているのに体裁を気にして離婚しない夫婦は、お互いに負の感情を抱いたまま暮らしています。仕事が忙しいからと、反抗期の子供の面倒を全て妻に押しつけていた者は、妻に逃げられました。

 

私の周りで実際に起こったことです。皆、貴重な時間を無駄にしているだけでなく、大切なものを失っています。早くに素の自分に向き合い、「どうしても結婚したい」、「一緒には暮らせない」、「子供を躾ける自信が無い」、と自分の本音や弱音を確かめることができれば、駆け落ちするなり、別居するなり、カウンセラーに相談するなり、それぞれの対応の仕方も変わってきたはずです。

 

素の自分を自分以外の人にさらけ出す必要は無いとは思いますが、少なくとも、自分に嘘を吐くことだけは止めた方が良さそうです。素の自分を封印して、仮の自分を演じ続けることは知らず知らずのうちに、自分に無理を強いていることになります。

 

素の自分に耳を傾け、自分に正直に物事を判断する。とは言え、そこには理性や道徳心と言うブレーキが必要だということは、前回の記事に書いたとおりです。素の自分と理性・道徳心がうまくかみ合うことによって自分のものさしが出来上がるのではないでしょうか。

 

本心を見つめる時間を作る

私は最近になって、毎晩、寝る前の10分前後を一日を振り返る時間にしました。その日誰かと交わした会話で自分の言ったことは本心だっただろうか、とか、適当に相手に調子を合わせていなかっただろうか、などと考えると、1日の中で自分に嘘を吐いていることが意外に多いことに気づかされます。

 

日々忙しく暮らしていると、自分の本心など二の次で、目の前の仕事を片づけるだけで時間が過ぎて行ってしまう、と言う人が多いと思います。

 

しかし、1日5分でも10分でも、素の自分が今何を考えているのかを、確認する時間は確保したいところです。自分の心との対話から、本心や弱音を知っておくと、何かの決断を迫られた時の判断基準を常に身に着けておくことができるのです。

本心はどこにある? (1)

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自分のものさし

前回の記事の最後で、自分にとって必要か否かの判断は、自分の胸に聞くべきということを書きました。

 

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世間体と虚栄心の共通しているところは、周囲の人々の目に対する意識と言う点です。他者が自分をどのように受け止めるのかをものさしにするということは、物事の決定権を他者に委ねることと同じです。

 

人を戒める時に、「そんなことをしたら世間に顔向けできないぞ」という手垢のついた言い回しがあります。これこそ、他者の目を善悪の判断基準とするものに他なりません。

 

ある意味、これはとても楽な道です。なぜなら、自分で考える必要が無いからです。自分の行いについて、誰かに問われても、「それが世間の常識だから」の一言で片づけることが可能になります。しかし、それでは、自ら選択肢を狭め、自分の思いにふたをして生きて行くのを強いられることになります。

 

本来、善悪の判断や、“すべき・せざるべき”の判断は、自分が生まれてから蓄積してきた知見や経験によってなされるものであって、そこに他者が介在する余地は無いはずです。ところが、幼いころから、恥の文化に染まってしまうと、知ってか知らずか、他者の目を気にしたり、周囲に同調する習慣が身についてしまうことになるのです。

 

他者の価値観が介入すると、お葬式での故人や遺族の思いや、結婚式での当事者の願いが置き去りにされてしまうことだってあるわけです。

 

当然のことながら、他者とつながって生きている以上、万事ゴーイングマイウェイというわけには行きませんが、自分自身のものさしを持たないと、周囲に翻弄されて一生を終えることになってしまいます。

 

素の自分

実は、前回の記事を書いた後、私は、あの記事で「本心」としていたものが、実はものさしであって、本当の意味での「本心」は別物ではないかと考えました。自分の本心だと思ったものに対して、「本当にこれが自分の本心なのか?」と自問すると、途端に確信が揺らいでしまいます。自分でも確信の持てない本心を、自分以外の人間にさらけ出すことなど不可能な話です。

 

では、改めて、自分のものさしとはどのようなものなのでしょうか。本心や本音と言われているものは、どうやら、それだけではものさしになりそうにありません。なぜなら、本心の突き進むままに任せてしまっては、他者や自分自身を傷つけてしまう可能性もあるからです。ものさしは、本心をベースにしながらも、理性や道徳心で“ろ過”された判断基準であるべきでしょう。

 

とは言いながらも、ろ過される前の、包み隠さない本心 ‐ 素の自分 ‐ を知らずして、判断基準を決めるために必要な自分の軸足を固めることはできません。

 

では、素の自分とは何者で、どこに隠れているのでしょうか。

 

「飲ませて、本心を吐かせよう」とか、「本音で話せ」と言う時、本心や本音は、「嘘偽り無く思っていること」を指しますが、果たして、自分以外の人間に対して、素の自分をさらけ出すことなどあるのでしょうか。と言うのも、人の本心はそんなに簡単に姿を現すものでは無いからです。

 

自分の本心なのに、何故自分でそれを捉えることが難しいのでしょうか。それは、体裁や虚飾を排除しても、なお、人は格好をつけたがる生き物だからです。他者からは決して覗くことのできない、自分の内面世界の中でさえ、己に対して自分を良く見せたいという意識が働いてしまうのだと考えます。

 

プライドや理性や道徳心が素の自分を覆ってしまっていては、まだ自分の本心にたどり着いていないことになります。掘った先から波に洗われてしまう砂浜の穴掘りのような ‐ 本心を探ることとは、とてももどかしい作業の繰り返しなのかもしれません。

 

何が自分の本心なのか、どこに“素の自分”が潜んでいるのか。催眠術でもかけてもらって、潜在意識を覗いてみれば分かるものなのでしょうか。

 

人はいくつもの顔を持っています。外の世界では、周囲の人々から認識されている自分と、“このように見られたい”という自分。双方とも、自他の認識の差こそあれ、これは外の世界での自分のイメージであって、本当の顔ではありません。

 

他方、内の世界では、「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分と、普段姿を見せない“ありのままの思いを抱いた自分”が存在します。前者は“あるべき姿を演じている自分”であって、本当の顔ではありません。努力家、良き家庭人、思いやりのある人間・・・など、自分はこういう人間だと思っているものの、実は「そうありたい」と思い込んでいるイメージでしかないものです。そして、後者こそが、自分の中で唯一、本心を語ることのできる存在です。

 

素の自分が語るのが本心 ‐ ありのままの思い ‐ であることに間違いありませんが、普通、誰かに「あなたの本音は?」と聞かれた場合、素の自分がいきなり登場することはありません。

 

なぜなら、素の自分は、大抵、自分でも認めたくない自分だからです。(続く)