和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

仕事と家庭 介護休業が始まって

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自分のための介護休業

介護休業に入って1週間が経ちました。妻は、たびたび私に対して、会社を休ませることになってしまい申し訳ないと口にします。休業は、私が後悔しないために自らの判断で決めたもので、誰かに強いられたものでは無いと妻に何度となく説明したのですが、妻は自身を責める気持ちを拭えないでいるようです。妻の闘病を支えるために自分が最大限できること、それを考え導き出した結論であり、それは、自分のための介護休業でもあります。

 

会社に介護休業の申し出をすると決めた時、最初に当時の上司に話をしました。上司の反応は大体予想がついていたので、私は最初から“相談”では無く、自分が決断したことを伝えるだけにしようと決めていました。

 

案の定、上司の口からは、「看病できる身内が他にいないのか」、「これから先のキャリアのことを良く考えろ」と言われました。コロナ禍以前に、私が母親の様子を見に行くために有給休暇を取ることにさえ良い顔をしなかった上司なので、このような反応が返ってくることは承知していました。たかが休業の申請書に印鑑をもらうために、散々嫌味を言われましたが、ようやく上司は根負けして介護休業の申請書に捺印しました。

 

私にとって家族は、仕事や自分のキャリアと比べる対象ではありません。仕事と家庭は無理をして両立させるようなものでは無いのです。私の考えは最後まで上司に理解してもらえませんでした。

 

気がつかなかった重圧

妻の看病と家事に専念できる環境を手に入れられたのは、私の望みであり、自分の願いが叶ったこと自体が私に精神的な安定感をもたらしてくれました。そして、もう一つ、これまで感じていた表現し難い圧迫感が消失したことが、私にとって大きな発見でした。

 

圧迫感が消失して、初めて私を取り囲んでいたものが取り除かれたのだと気がつきました。原因は自分が一番よく分かっています。これまでの約30年間の会社人生で、仕事や人間関係から来るストレスに対峙し耐えることが当たり前の生活を過ごしてきました。まるで、ゆっくりと深海に潜り続けるように、重圧を重圧と感じないよう自分の心を慣らしてきたのだと思います。

 

それが、休業開始を境に重圧が取り除かれました。深海から海面まで急浮上して胸いっぱいに新鮮な空気を取り込むような - 実際にそのようなことをしたら潜水病になってしまいますが - あるいは、見えない拘束具から解放されたような感じでしょうか。突然到来した心の軽さは、戸惑いを産むことにもなります。

 

私は自分のことを仕事人間だと認めたくはありませんでしたが、仕事から完全に切り離されてからも、携帯電話に触れた時やパソコンを立ち上げた直後に、無意識に仕事関係のメールをチェックしようとする自分に気がつきます。これまでの業務は部署の人間に引き継いでいるので、今さら私が心配することなど何も残ってはいないのですが、習慣とは恐ろしいものです。

 

また、介護生活は私の予想していたものであり、差し当たっての不満と言うものは無いのですが、その“不満の無い”状態に対して、気がつくと、何か不足しているものは無いかと自問している自分がいます。不満が無いことに不安を感じるなど、ナンセンス極まりない話ですが、ぼんやりとしたかすかな不安が不意に頭をかすめることがあります。

 

これは、圧迫感が突然消え失せたことに心がまだ慣れていないせいなのか、あるいは、時間的な余裕ができたことで、考える必要も無いことを考えてしまうためなのでしょう。仕事で忙しい時には、余計なことを考える暇も無かったので、他愛も無い心配事が頭に浮かんでくると言うことは、自分は今恵まれた状況にあると言うことなのかもしれません。

 

心は自分勝手

仕事に明け暮れていた頃は、もっと自分の時間が欲しい、家族と過ごす時間を増やしたい、と願っていましたが、こうして、自分の持ち時間を妻のために振り向けられる環境を手に入れると、今度は、この状況を出来るだけ長く続けたいと言うわがままが芽生えます。

 

介護休業は5月末までの予定で会社から承認されています。それまでまだかなりの時間があり、誰かに気兼ねすること無く、妻のリハビリや通院の付き添いを行なうことが出来ます。

 

しかし、私の休業中に妻がどのくらい快復するのか、これから先、仕事に復帰することが最善の策なのか、そのようなことを考え始めると、途端に軽かった心を見えない手によって再び海の底に引き込まれるような感覚に襲われます。

 

妻の看病と家事に専念したい自分と、少し先の将来を気に掛ける自分。二人の自分が葛藤を続けています。ようやく手に入れた精神的な安寧が指の隙間からこぼれ落ちることを恐れ、不安感が頭をかすめているのです。

 

安心や不安は心の持ち様次第なのですが、その心はときに身勝手な振舞いをすることがあります。本心と理性は着地点を未だ見つけられずにいます。