和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

介護考(2)

同居反対

私は二週に一回の頻度で母の様子見をしてきましたが、コロナ禍以前は、仕事の都合で妻に代わってもらうこともしばしばありました。結婚当初から、妻は実の息子である私よりも母と馬が合い、嫁姑問題とは無縁で、将来母と同居するのも厭わないことを口にしていました。

 

他方、母は、「誰の世話にもならない」と言うのが口癖でしたが、もし、私たちとの同居を申し出たらどのような反応を示したでしょうか。最終的には提案を受け入れたかもしれません。

 

妻の母への気遣いは有難いことでしたが、私は親との同居に反対し続けてきました。三十年近くも別々に暮らして来た者同士が一緒に暮らせば、改めて共同生活のリズムを立て直さなければなりません。

 

また、同居後に、母の介護が本当に必要になった場合、共働きだった私たちは、それぞれの仕事をどうするのかも考える必要がありました。

 

それ以上に、私としては、良好な妻と母との関係が、同居後にギクシャクしたものになることを一番恐れていました。これまではたまに会うだけだからお互いに気遣いが出来ていたのでしょうが、毎日顔を合わせればそうは行かないでしょう。もし、両者の関係が険悪なったとしても、一旦同居したらもう逃げ場はありません。

 

母の介護が、早晩避けては通れない問題となることは分かってはいましたが、一緒に暮らせば解決とは行きません。私は妙案を見つけられないままに、問題をずっと先送りしてきました。

 

妻の介護

これまで私は、自分が亡くなった後の家族のことばかりを心配してきました。男女の平均寿命の差からしても、私の方が先に逝く確率の方が高く、いずれ自分が看取られる側に立つものだと都合良く考えていました。妻を看取ることなど、私には考えの及ばないことでした。

 

その妻が乳がんを患い、手術を受けた後は当面自宅療養をすることが決まりました。私の中で想定して来た将来の家族像や老後の生活のイメージが一変したのです。人生観と言うと大袈裟なのでしょうが、今まで仕事中心に回っていた私の思考は大きく向きを変えました。

 

人生の目的や自己の存在意義と言った哲学的なことでは無く、もっと自分の手の届く範囲、時間軸での自分の役割は何なのかを考えた時、私は仕事のキャリアは脇に退けて、妻と寄り添うことを選びました。

 

私にとって幸いだったのは、子育てもほぼ終わり、万が一仕事を失ったとしても当面は困らない状況にあったことと、母が曲がりなりにも独りで生活出来ていることでした。

 

私は、妻の術後の約二か月間、介護休業を取りました。当初、私は仕事を継続しながら、娘二人とも役割分担して家事や妻の介護を行なうことを考えていました。

 

しかし、手術前の抗がん剤治療の期間に分かったのは、三人で役割分担とすると、仕事や学業との折り合いをつけづらく非効率なことでした。おまけに、家事の当番制が上手く回らないとそれがストレスになります。

 

せっかく父娘三人で協力し合おうとしても、お互いに気まずくなるくらいなら、私はいっそ、自分が“専属で”介護に当たり、それを残りの二人がサポートする方が良いと考え、結果として介護休業の道を選びました。

 

実際に介護休業を取った結果、妻の療養生活を全面的にバックアップするためにはそれがベストな選択だったと、私は今でも思っています。介護と仕事を両立させる努力は必要だったのかもしれませんが、私の場合に限って言うと、無理をしなくて正解でした。

 

介護休業は、妻の闘病を支えるために取ったものです。その理由に間違いはないものの、いざ介護生活に飛び込んでみて、私は、“妻のため”以前に自分自身がその役割に没頭していることに気がつきました。

 

あれから二年近くが経ちますが、今にして思えば、私の心のどこかに、家庭人として至らなかった過去の埋め合わせをしたいとの思いがあったのでしょう。仕事を理由に、僅かな負担とは言え妻を頼りにしてきた後ろめたさの積み重ねが、私の中に澱のように溜まっていたのだと思います。

 

介護生活が終わった後も、私の生活の中心が家事であるのは、私のささやかな贖罪の気持ちの表われなのでしょう。