和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

介護考(1)

呆気無い最期

過去の記事で何度か触れましたが、私の父親は六十六歳でこの世を去りました。事業を畳んで、地方の観光地に終の棲家を構え、母と二人の老後生活を楽しめるようになって六年足らず。その最期は呆気無いものでした。

 

当時私は海外駐在中で、クリスマス間近に長女が生まれました。お互いの親に孫の顔を直接見せられない私たちは、娘の写真を日本に送りました。しばくして、義母からは写真が届いたとの電話が来ましたが、私の親からの連絡はありません。

 

きっと電話が来るのを待っているのだろうと、私は両親に電話をしました。普段電話口に出るのは母親でしたが、その日はたまたま父が電話を取りました。他愛の無い話の後、長女の写真を送ったことと、もう少し暖かくなったら一時帰国することを伝えて電話を切りましたが、私にとってそれが父との最後の会話になりました。

 

その翌日、仕事中の私に母から、父の死を知らせる電話がかかってきました。前日の私との電話では、少し風邪気味だと言っていた父でした。

 

私が電話をした日の夕方、父は急に高熱を発し、翌日の早朝に異変に気がついた母が救急車を呼びましたが、救急隊員が到着した時にはすでに心肺停止状態。蘇生も上手く行かず、同乗して来た医師によってその場で死亡が確認されました。

 

私の唯一の心残りは父に娘を会せられなかったことでした。娘の写真は、私が電話した日の午後に両親の手元に届き、床に臥せっていた父も写真を見ていた – そんな話を父の葬儀の後に母から聞かされました。

 

今から思えば、父の老後生活はあまりにも短く、孫と触れ合うことも出来ませんでしたが、長患いで床に伏したまま死を待つのでは無く、元気なうちに人生を全う出来たことはある意味幸せだったのかもしれません。

 

母も、私と同じようなことを折に触れて口にしますが、それは自分の置かれている状況が父とは対極的だからなのでしょう。

 

介護する側、される側

父と十歳違いの母は、今の私と同じ年齢で未亡人となりました。その頃すでにリウマチを発症していた母でしたが、まだ一人旅を楽しむ余裕がありました。

 

それが、還暦を境に病状は悪化し、まずは両膝に人工関節を入れる手術を行ない、数年後には両肘も同じ状態になりました。

 

そんな母に、私は家を引き払って生活の便の良い場所に移ることを勧めましたが、当の本人は頑として聞き入れませんでした。

 

それから二十年余り、母は今でも独り暮らしを続けています。その間、私たち家族は二度目の海外駐在で約七年間日本を離れていましたが、帰国してからこれまで、私は近い将来の母の介護をどうするかを真剣に悩み続けています。

 

母は今でも「自分の介護は不要」と意地を張り、独りで身の回りのことをやろうとしています。私は二週に一回の頻度で母の様子見に行っていますが、年を追うごとに家の中の片づけが行き届かなくなっているのが分かります。

 

母はきっと、誰の世話にもならずに最後まで自立した生活を維持しようと思っているのでしょうが、その気力にいつまで体がついて行けるのか、本人が一番不安に感じていることでしょう。

 

本人の気持ち、周囲の心配、介護される側とする側とで、いつどのように折り合いをつけるべきなのか、私の中ではまだ結論を出せていません。(続く)