和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

陰口

陰口

昭和の刑事ドラマなどで出てくる脅迫文は、新聞から切り抜いた活字を組み合わせて作ったものが定番でした。子どもの頃、お遊びで新聞や雑誌を切り抜いて“脅迫文”を作っていて親に酷く叱られたことを覚えています。

 

下らないことをしている暇があったら家の手伝いでもしろと母は眉をひそめたものでしたが、役に立たないことほど熱中してしまうのが子どもなのです。

 

幸いにして、私はこれまで誰かを誹謗・中傷したり、脅迫したりすること無く過ごして来ましたが、自分の考えと相容れない人に不快感を覚えてしまうことは多々ありました。ただし、思うことがあれば、その本人に言えば済む話で、誰かに愚痴をこぼしたり、悪評を広めたりすることはしません。そんなことは潔くないと分かっているからなのと、昔から繰り返し、母曰く“口が酸っぱくなるほど”注意されてきたお陰でもあるのでしょう。

 

母親から繰り返し聞かされた話で ‐ 今も事あるごとに聞かされる話ですが ‐ 父が祖父を𠮟りつけたエピソードがあります。

 

祖父は九十過ぎで他界しましたが、その数年前に、入院中の病院を抜け出して、女性が接待するお店で具合が悪くなり救急車で病院に運ばれました。運良く一命を取り留めた祖父は、見守る身内を前に一言、「死ぬかと思った」と笑顔で呟きました。それに対して、父は「まだ生きたいのか」と罵り、その場を凍りつかせたそうです。

 

それまでも祖父は、自由奔放に生きて来て周囲に迷惑をかけ続けたようでしたが、父は、身内同士での陰口を窘める側でした。そんな父が声を荒げたとは、自分の親のあまりにも放埓な振舞いと、心配する子供心を理解しない態度に堪忍袋の緒が切れたのでしょう。生前の父は物静かで、私も父の激高する姿を想像することは出来ませんでした。

 

その後、祖父は養護施設でしばらく過ごした後、そこも厄介払いされ、亡くなるまでの三年足らずの間、父が面倒を見ることになりました。それまで、陰では文句を言いながら祖父の前では良い顔をしていた身内は、誰一人祖父を看取ろうとする者はいなかったそうです。

 

母は決まってその話の後に、陰でこそこそ人の悪口を言うものでは無いことと、文句がある時は直接本人に言うようにと話を締めくくるのが常でした。

 

会社に入ってから、私は何人かの上司や元上司から、不遜だとか態度が悪いと陰口を叩かれたことがありました。私としては、思い上がりや職場の和を乱そうと思ったことは一度も無かったのですが、上司の中には、部下に面と向かって諫められると、こちらが伝えたいことは隅に追いやられ、態度の良し悪しに話をすり替えてしまう人が少なくありませんでした。

 

物申すこと

会社での陰口は、大体のところ“発信元”の察しが付くので、変な言い方かもしれませんが、安心感があります。

 

これが、未知の相手からの脅迫や誹謗・中傷だった場合、私にはまだそのような経験はありませんが、きっと不安や苛立ちを抱える毎日を過ごすことになったでしょう。

 

私がSNSのアカウントを持っていてもほとんど呟かないのは、どこで地雷を踏むか分からない、あるいは、自分の一言が誰を傷つけるかが分からないからなのだと思います。

 

最近、SNSを回遊することは無くなりました。自分とは全くつながりの無い人に対してだとしても、匿名性を利用した個人攻撃や誹謗中傷は、私の気を滅入らせます。多様なものの見方に触れることを期待していたSNSですが、もう少し成熟するまでは自分のアカウントは寝かせておこうと思っています。

 

SNSが発達する以前の時代、特定の企業や人物へのクレームや誹謗には、それなりに労力も時間もかかったことだろうと想像します。電話をかけたり、手紙を送ったり(新聞から切り抜いた活字を使う人もいたことでしょう)することは、よほどの怒りや不満が無ければ行動に移す前に馬鹿馬鹿しくなって止めてしまうはずです。

 

今は、手元に携帯電話があれば、取るに足らないことや自身の欲求不満の解消のために、“気軽に”人を傷つけることが出来る世の中です。

 

自分と少しでも違う考えを持つ他者を傷つけることは正当化出来ません。狭いものさししか持たず、過剰な正義感をかざしての自己の鬱憤晴らしをするためにSNSを使っているのなら、それは、私が子どもの頃に作っていた脅迫文と同じくらい無益なお遊びです。

 

私にも自分の考えと相容れない考えの持ち主に遭遇したことはありましたが、否定も肯定もしないのが、多様性を認めようとする世の中の流れなのだと受け入れるようにしています。

 

面と向かって相手の非を指摘するのは面倒なものです。かつて、「不遜だ」と言われた上司に対しても、言わないでおこうかどうしようか長い時間逡巡した記憶があります。自分が正しいことを言ったつもりでも、相手の逆鱗に触れれば、その場で罵倒されたり殴られたりすることだってあり得るのです。当時のことを思い返すと胃の奥にチクリとした痛みを感じます。それほど、誰かに物申すのは神経を使うものなのです。