和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

時間の引き算(1)

他者に管理される予定

私がまだ仕事に忙殺されていた頃、すでに定年退職していた会社の先輩に飲みに誘われました。定年を迎えるわずか数か月前に奥様に先立たれた先輩は、再雇用の道を選ばずに、「これからは孫の世話を生きがいにしたい」と六十歳で完全リタイアしました。

 

ところが、その後、娘さん夫婦は家に寄りつかず、先輩は生きがいだったはずのお孫さんの面倒を見ることも無く、独りの時間を持て余しているとため息を吐きました。

 

こちらから根掘り葉掘り聞くような話題では無いため、どのような事情があったのかは分かりませんが、私は、先輩のように手持無沙汰な毎日を過ごすのと、自分のように忙し過ぎて「時間が足りない」と嘆くのとでは、どちらが苦痛なのだろうかと意味の無いことを考えていました。

 

その後、先輩から声をかけてもらったことが何度かありましたが、コロナ禍や妻の看病もあり、顔を合わせること無く数年が過ぎました。

 

やりたいことが見つからなくても、やりたいことが出来なくても、同じように時間は過ぎて行きます。時間は持て余しているからと言って、誰かに分け与えられるものでは無く、その逆も然りです。結局、自分の時間をどう使うかは自分次第なのです。

 

しかし、そう思いながらも、自分や家族のための時間を作るのは当時の私にとっては至難の業でした。時間管理用のアプリは、本来自分の予定を管理するためのものですが、スケジュールは自分の意思とは関係無く定例の会議や打ち合わせで次々に埋まっていきます。

 

他人に管理される自分の予定。平日は会社での仕事が中心、家には寝に帰っているだけのようなものでした。あの頃、私が悩まされていた焦燥感や不安感は、家族と過ごす時間を大切にしたい気持ちとそれが叶わない現実とのギャップが原因だったのだろうと思います。

 

頭では生活の中心が自分や家族にあることは分かっていても、時間の軸は仕事中心。妻が病に倒れなければ、今も私は他者が埋めたスケジュールをこなすのに汲々としている状態から抜け出せていなかったでしょう。

 

安堵感と後ろめたさ

一昨年、私は役職を下り仕事をスローダウンさせて、その半年後に約二カ月の介護休業を取りました。

介護休業は、文字どおり介護のために仕事を休むのであって、手持無沙汰な時間が増えるわけではありません。むしろ、私は一日があっという間に過ぎるほどに忙しい毎日を送っていましたが、手を動かしながらも、頭の中では様々な思いが去来しました。

 

妻の介護が私に与えてくれたものはつらさでは無く喜びでした。仕事から完全に切り離され、大切な人に寄り添うことが出来る安心感と同時に、私はそれとは別の、肩の荷が下りた安堵感を覚えていました。

 

私にとっての肩の荷は、役職に伴う重責に他なりませんでした。後になって、会社のある部署の人間は私に言いました。「家族の事情を言い訳にして責任逃れをしているのではないか」と。私はその言葉に酷く傷つけられましたが、一笑に付すことが出来ないある種の後ろめたさのようなものがありました。

 

当然のことながら、妻の介護に専念しようと決断した際、与えられた任務を全う出来る状態にないまま、役職に居座り続けることはあり得ないとは考えましたが、妻の病気を「これ幸い」と仕事を投げ出したわけではありません。

 

しかし、結果として安堵感が得られたと言うことは、その過程はさておき、私の心のどこかに現状から逃げ出したい気持ちが隠れていたのかもしれないと感じました。

 

もちろん、当時も今も、あの時の決断を後悔したことは無く、逆に、無理をして仕事と妻の介護を両立させようなどと考えていたなら、今のような家族の連帯感は生まれなかったと思います。

 

そう考えると、他人からどう思われようと、また、自分の心の底に仕事からの逃避願望があったとしても、“結果オーライ”なのです。

 

かつて、自分の思いどおりの“時間割”が作れなかった私ですが、今は、家族と過ごす時間を最優先にしています。所定の勤務時間中は仕事に専念するのは当たり前のことですが、残業はしません。夕方の五時には仕事を切り上げて食事の用意に取り掛かります。勤務開始に遅刻が厳禁なのと同様に家族時間の開始も遅刻は厳禁 - そう考えるようになりました。(続く)