和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

家事の喜び

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家事の分担

先週末、下の娘の誕生日を自宅で祝うため、食材の買い出しに出かけました。ここ数か月、食材や日用品の購入は大手スーパーの宅配サービスを利用していたので、散歩以外での外出は久しぶりのことでした。

 

少し本題から逸れてしまいますが、これまで食材や日用品の買い出しをすると、つい思いついて余計な物を買ってしまいがちでしたが、必要な物を必要な分だけ注文する宅配に切り替えたことで、思いの他食費が抑えられたのは意外な発見でした。

 

さて、買い物には上の娘が付き合ってくれたのですが、買い物代の半分を出すと申し出てくれました。私は余計な気遣いだとそれを断ったのですが、娘は、会社勤めを始めたからか、妻の病気のせいか、ここ最近少し様子が変わった気がします。

 

昨年の春まで我が家は共働きで、家事は家族で“公平に”負担するルールでした。とは言え、きっちりとした当番制では無く、その日の“忙しさ”を見ながら役割を決めていました。一番遅く出かける者が掃除と洗濯、一番早く帰宅する者が夕飯作りを担当するといった感じでした。運悪く全員帰宅が遅くなってしまう時は、スーパーの総菜売り場でおかずを調達して済ますこともありました。

 

コロナ禍で家族が家にいる時間が増えると、個々の家事の負担は減り、暮らしが快適になるはず – と考えていたのですが、そんな都合良く物事は運びません。

 

妻の抗がん剤投与が始まると、私も娘たちも、妻に安心して治療に専念してもらいたいと強く思っていました。当時は、私も週に2日程度は出社していたので、家を空けないように、家事が疎かにならないようにと、私と娘たちで日を決めて役割を分担しました。

 

実験終了

しかし、会社勤めを始めたばかりの上の娘と大学生の下の娘に妻の介護と家事を任せるのは、あまり良いアイデアではありませんでした。体調の優れない妻と一日中一緒にいることは、子どもとしてつらい気持ちを抱え続けることになります。また、予め役割を分担していても、帰宅が遅くなって、“非番”の者が家事を代わることになると、それが不満の種になります。

 

本来、家族のための家事なわけですから、出来る者が出来ることをやれば良いのですが、公平に負担しようと考えたのはいけませんでした。

 

当番どおりに家事が出来ないと、割を食った方は“負担が増えた”と感じてしまう。当番に穴を空けてしまった方は、後の予定を調整することが負担になってしまう。

 

そんなことをしばらく続けていると、家事は義務感を帯びた重荷になってしまい、家族の間にギスギスした感情が芽生え始めました。

 

妻の闘病をバックアップすべき私や娘たちがいがみ合っては、何のための家事分担だったのか分からなくなってしまいます。

 

結局、家事分担の“実験”は2か月余りで終了。考えた結果、家事全般を私が中心になって行なうことにしました。私は会社に役職を下りる希望を出して、家族中心の生活を考えました。

 

娘たちに家事を分担してもらおうなどと期待しない。それは、“君たちは当てにしない”と突き放すと言う意味ではありません。誰かに期待してそれが叶わなかった時に、心の中に小さな不快感を覚える自分が嫌だったのです。愛すべき家族を嫌いになってしまうほど不幸なことはありません。

 

心地良い状態

それ以来、途中、介護休業も挟んでの1年余りの間、私は仕事と家事を両立しています。私自身の仕事の負荷を減らせたことが大きいのですが、コロナ禍のお陰で始まった在宅勤務が無ければ、それは実現出来ませんでした。

 

娘たちには、それぞれの仕事や勉強に専念するように言いましたが、それでも、休日や早く帰宅した日には、私を良く手伝ってくれます。それは強制したわけでは無く、彼女たちが自発的に行なってくれていることです。こちらが期待していないことに協力してくれる娘たちに対して、私の中には自然と感謝に近い気持ちが生まれ始めました。

 

娘たちの妻を見る目も、見ているのがつらくて敵わないと言うものから、現実を受け止めて支えて行こうと言うものに変わってきました。

 

家族の中の小さな葛藤はありましたが、現在の状況は、家族全員にとってとても心地の良いものになっています。

 

そして、私自身気がついたことは、ひょっとして私は家事に向いているのではないかと言うことです。自画自賛なのは分かっているのですが、毎日の繰り返しの作業に嫌気が差しません。自分が中心になると宣言したためのやせ我慢では無く、家の中のことを切り盛りすることにささやかな喜びを感じているのでした。