和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自分の潮時

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封印された提案

長年夫婦をやっていると、「これ以上言うと、喧嘩になるな」とか、「ここで折れておいた方が無難だ」と、越えてはいけない一線が見えてきます。遠慮はしないけれども、相手を傷つけることは避ける。私たち夫婦の間には、暗黙の“寸止め”ルールが出来上がっています。

 

今、最後の夫婦喧嘩がいつのことか思い出せないほど夫婦の仲が上手く行っているのは、病気の克服と言う共通の目標を前に、煩わしいものを背負い込まないようにお互いに警戒しているからなのだと思います。だから、寸止めにすらならないのです。そう考えると、私たちは、最早遠慮しないで言いたいことを言い合える夫婦では無くなってしまったのかもしれません。

 

昨夏、妻の抗がん剤治療が始まる前に、私は仕事を辞めること、そして、妻の闘病を全面的にバックアップすることを彼女に提案しました。

 

妻の返事は、自分の病気のために私や娘たちが何かを諦めるようなことはしてほしくないと言うものでした。こういう時の妻の頑固さは私が一番良く知っています。ここで言い返しても喧嘩になるだけ。そう思い、この案を改めて妻に尋ねることはしてきませんでした。

 

私も娘たちも、妻がそう言うのなら、気を遣い過ぎないように普段通りに振舞おうと考えました。しかし、それが妻の本音なのだろうか。後になって、そして、今でも、疑問が頭を過ります。

 

先々の不安は、周囲の人間以上に本人が一番感じているはずです。自分の闘病によって私や娘たちが犠牲になることは避けたいと言うのは、嘘ではないけれども、妻の本音とも違うのではないか。蒸し返すことを戸惑いながらも、私の中に、もう一度妻と向き合おうと言う思いが湧き上がってきました。

 

都合の良い言い訳

私は私で、介護休業から仕事に復帰してみると、ときたま、“心ここにあらず”の状態にある自分に気づき、はっとすることがあります。在宅勤務のため、常に階下にいる妻の気配を感じながら机に向かっています。特に抗がん剤を投与した日から一週間は副作用が強く出るため、妻の様子は余計に気になってしまいます。

 

専念すべき仕事に専念できないことよりも、傍についていてあげたい妻についてやれないことが、私のイライラ感を募らせます。仕事と家族を比べてはいけない。仕事は余人をもって代えられるもの。何度も部下に言い聞かせた言葉が自分に返ってきます。今の自分は何がしたいのか。煩悶するまでも無く答えは出ているのです。

 

すでに出ている答え。しかし、私の中には未だに整理できていない感情が残っています。

 

思えば、妻の発病とは別のところで、私はすでに仕事に対する情熱を失っていました。とは言え、“働かない働き蟻”になるつもりなど毛頭無く、業務目標を達成しようと仕事をこなしてはいました。ただ、かつての自分のようには仕事に没頭できず、冷めた心を奮い立たせようとする自分と、仕事を放り出して楽になりたいと思う自分が一つの体を引き裂こうとしている感覚に囚われていました。

 

やりがいを見出せなくなってしまったからには、残された道は一つしかありません。そのような最中の妻の発病。私にとってそれは、自分自身の問題から逃げ出すための格好の言い訳だったのです。

 

責任ある職から外れ、介護休業を取ったことは、全て闘病中の妻を支えるためでした。そのこと自体に嘘はありません。しかしながら、その裏で、まんまと責任逃れが出来てほっとしている自分がいたのです。

 

介護休業明けから仕事に集中出来ないのも、戻りたくない場所に戻って来てしまったからなのでしょう。「妻の病状が気になって仕事に集中出来ない」と言うのは、ずるい男の言い訳でしかないのです。

 

仕事を辞めて一緒に闘病に専念したい。その思いは本当であるものの、自分に対しての言い訳が紛れ込んでいます。自分の本心を見透かしてしまった私は、ここ数日の間、身動きが取れずにいました。

 

これまで部下に偉そうなことを言ってきた人間の本性がこれです。妻のため、家族のため。そんな言い訳ばかりを考えて、「自分はどうしたいのか」と言う直球の質問から逃げ回っていた、あるいは、逃げ回っていること自体を認めたくなかったのです。

 

正直な自分

「自分はどうしたいのか」。すでに分かっていることでした。管理職を下り、責任ある仕事を外され、一足早く役職定年を迎えた私にとって、60歳で定年を迎えるまでの期間は消化試合です。老後資金を緩やかに積み上げるよりも、自分のために自分の時間を使いたい。今朝目覚めた時、いつに無く爽快な気分とともに、自分なりの結論が“降りて”きました。今が自分にとっての潮時なのだと確信しました。

 

「自分のために仕事を辞める」。妻にどのように切り出そうか・・・悩んでいても仕方の無いことです。彼女の体調の良い時に、自分の思いを正直に伝えたいと思っています。