和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

共同生活のルール作り

続く治療

闘病中の妻は、5月の連休以降血液検査の数値が良くないことから、約1か月半の間抗がん剤による治療を中断していましたが、今週から投与する薬を体への負担が少ない分子標的薬に変えて治療を再開することとなりました。

 

主治医の先生からは、今度使う薬は副作用がほとんど無いため、投与後の生活には支障が無いとの説明がありました。今後は血液検査の結果と相談しながら、元の抗がん剤に戻すかどうかの判断をするそうです。

 

抗がん剤の投与を中断していた間、妻は倦怠感や発熱などの副作用から解放された普通の生活を楽しむことが出来ました。頭髪も生え始め、肌のかさつきも改善されました。

 

妻の頭髪が元の長さに戻るにはまだまだ時間がかかりますが、ウィッグ無しでの外出が待ち遠しいと妻が呟いたのは、治療の先にある近い将来への期待の表われなのでしょう。

 

妻ががんの治療を開始したのは一昨年の夏のことです。途中、手術を挟んで2年近く病院通いを続けています。治療を受けている妻、それを見守り支える娘たちや私。それぞれに苦悩はありましたが、それ以上に、家族のあり方や時間の大切さを学べたことは大きな財産だと考えられるようになりました。

 

共同生活のルール作り

所詮は赤の他人の夫婦とは言え、妻と私は親と過ごして来たよりも長い時間を共に暮らしてきました。その間、終始順風満帆と言うわけではありませんでしたが、それでも、お互いに愛想を尽かさずに来られたのは、一緒に暮らし始める時に、二人が納得できる共同生活のルールを作っておいたからだと思います。

 

ルールと言っても微に入り細を穿つ規則ではありません。喧嘩は翌日に持ち越さない。家計は二人で管理する。家事は公平に行なう – 以上です。

 

宵越しの喧嘩はしないと言うのは、大分前の記事で触れたと思いますが、“昨日の喧嘩の続き”みたいなことはしないように心がけています。結婚する前に妻と喧嘩をして何日も口を利かないことがありましたが、冷戦期間が長引くとますます話しづらくなり、仲直りのきっかけを見つけられなくなってしまいます。

 

夫婦喧嘩は大抵、“犬も食わない”程度の理由なのですから、お互いに意地の張り合いをするだけ時間の無駄。そう考えて、結婚してからは、喧嘩をしても翌朝はお互いに何事も無かったかのように振舞うことに決めました。

 

お金の管理や中長期の資金計画についても、過去に何度か記事にしました。結婚の際にお互いの預貯金の通帳や保険証券などは全てオープンにして、二人の共同財産がいくらあるのかを把握するところから新婚生活はスタートしました。共同財産とは言うものの、私はまだ入社三年目の身で、財産と呼ぶには程遠い額の貯金しかありませんでしたが、それはともかく、月々の収支を夫婦で点検していると、自分たちの生活レベルとそれを維持するために必要なお金の額が見えてきます。

 

また、キャッシュフロー表を作ることで、将来考えられるライフイベントとおおよその費用が分かれば、どの程度の生活レベルが自分たちの身の丈に相応しいのかが分かってきます。会社員としての生涯収入は嵩が知れています。他方、生きているうちに何としてもやり遂げておきたいことや手に入れたいものの優先順位があります。それらをどのように折り合いをつけるかは夫婦で予め話し合っておく必要があります。

 

家事や育児の分担は、家にいれば目を背けることは出来ず、公平性を保つのにとても気を遣うものです。我が家でも結婚当初にルールを決めたものの、公平感、とりわけ妻の視点からの家事の公平感は長い間無かったと本人は言います。

 

共働きとは言え、私の帰宅時間ほぼ深夜でしたので、平日は家のことは妻に任せ切りです。あちらもフルタイムで働いていたにも拘わらず、家事の負荷は妻に偏りがちでした。

 

そんな状況に私は後ろめたさを感じていましたが、月日が経ち、出産に伴い妻が数年仕事を離れることとなると、夫婦間での家事に対する考え方に大きな溝が生まれました。

 

私は、一日中家にいる妻が家事や育児をして自分は仕事に専念する – それが公平だと考えました。対する妻は、仕事を理由に私が家事や育児を押しつけていると感じていました。もちろん、私は自分の出来る範囲で家事や育児に“協力”してきたつもりだったのですが、その浅はかな考えは、家の中のことは妻が主役だと言う勝手な決めつけがあったからです。

 

共同生活で、自分だけが面倒なことを“やらされている”と感じた瞬間に、それは自分の意思に反した強制的、義務的なことになります。そうならないためのルール作りだったはずなのですが、その頃にはルールの本来の意義が失われていました。

 

家事でも仕事でも同じことが言えますが、「言われたことはやっている」と主張する人は、行為の先にある目的や目標を見ていません。言われたこと“だけ”しかやらなければ、それは、目的を達成出来ておらず、何もしていないことと同じなのかもしれません。当時の私がまさにそうでした。

 

もし私がずっと見当違いをしたまま過ごしていたなら、夫婦生活を続けることが出来なかったかもしれません。

 

私と違い妻は、家事や育児から目を背けたことはありませんでした。今の妻にしてみれば、昔のことなど気にしていないと言ってくれるかもしれませんが、私は依然として過去の自分に後ろめたさを感じています。今の私の生活が家事を中心に回っているのは、妻に治療に専念してもらいたいと言う思いはあるものの、それ以上に、妻に対する感謝と自省から出た行為なのです。