和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

暇つぶしと趣味(2)

苦行

子どもの頃、親が私に読書の大切さを説いたのは、それが語彙力をつける近道だからと言う理由でした。知らない漢字や言葉をその都度調べて覚えるのは地道な作業です。しかし、自分の読みたい本の中身を理解するための努力なら苦にならず、その点、親の言ったことは正しかったのだと思います。

 

私は、同じように読書の大切さを娘たちには何度か伝えようと試みましたが、なかなか響きませんでした。

 

特に、下の娘は、中学三年の時に運良く帰国子女枠で中高一貫校に滑り込めたものの、国語が全くダメでした。小学生レベルの本から読書をさせようとしましたが、本人はそれも受け付けず。担任の先生と相談して、読むのがダメなら聴くだけでも日本語に馴染むようにと、朗読のCDを聴くように勧められました。

 

娘はそれから通学の電車の中で朗読CDを聴く毎日を送ったようですが、朗読を聞き流すだけでは“読み書き”の力は備わりません。結局、最近になって、彼女は自分の日本語力の足りなさをようやく自覚して、漢字検定の問題と格闘しています。

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漢検問題に取り組んでいる娘は、内定先から入社日までに読むように勧められた書籍とも格闘していますが、同じ本を読むにしても、必要に迫られてページを繰るのは苦行以外の何物でもありません。

 

読書が大事だとあれほど言ったのに – おそらく、妻は娘にそう言いたくてたまらなかったと思いますが、今、一番後悔しているのは娘本人のはず。妻も私も一切口出しせずに娘を見守ることにしています。

 

現実逃避

おそらく、私の少年期から青年期は、ドラマティックな出来事とは無縁の面白味の無いものでしたが、様々な本を読み耽け、仮想世界で旅行や恋愛を経験し、誰かの身に降りかかったことを追体験しました。本は、現実の自分ではなし得ない多くのことを教えてくれました。

 

今振り返ると、学校の授業や受験勉強など、現実世界では常に何かに追い立てられる毎日を過ごしていた自分にとって、そこから逃避する手段が読書だったのだろうと、勝手に解釈しています。

 

それでも、当時の私は現実逃避したいと思えるだけの心のゆとりがあったのでしょう。ここ数年の“読書離れ”は、一言で言えば、余裕の無さが原因だったのだと思いますが、本を手にしなくなったことで、現実世界に縛られた私はしばらく窮屈な思いを強いられることになりました。

 

今、再び読書を楽しめるようになった私は、心のゆとりを取り戻せた気分です。あるいは、心のゆとりが生まれたからこそ、本を手にしたいと言う気持ちを呼び戻せたのかもしれません。

 

読書沼での暇つぶし

私の愛読書は、どれも読み古されて、古本屋でも引き取ってもらえないような代物ばかりです。“読書離れ”以前の頃には、「また同じ本を読んでいる」と妻から揶揄されたこともありましたが、確かに十数回も読み返した本があります。

 

愛読書が飽きないのは、読み手である私が歳と共に変わってきているからなのだと思います。小説の登場人物の年齢は変わらずに、読む回数を重ねるたびに私は歳を取っていきます。若い頃には共感出来た人物が、歳を取った私とっては嫌悪を抱く対象になっていることもあります。

 

自分が歳を重ねて、結婚し、家族が増え、様々な経験を積むことによって、本の中身は同じでも、受け止め方が全く違うものになります。

 

そういう意味で、繰り返し読む本は自分を映す鏡と言えそうです。登場人物のセリフも筋書きも結末も全て分かっていても、その時自分がどう感じるかを知りたくてページを捲っている手が止まらなくなります。

 

積読をひととおり消化した私は、愛読書の再読を始めたところです。読書沼にどっぷりと浸かる時間は私にとって良質な暇つぶしになりそうです。