和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

取り戻した自分時間

気の抜けない休み

まだ毎日会社に通っていた頃、通勤電車の中の私はメールのチェックや書類の確認に時間を割いていました。若い頃は電車に揺られながらの読書が貴重な息抜きでしたが、そんな息抜きの時間も仕事に奪われていました。

 

当時の私はいつも焦燥感を覚えていましたが、それは仕事の〆切や片づけても一向に減らない仕事の課題が原因なのだと自分なりに解釈していました。

 

しかし、今考えると、何かに急き立てられている感覚に悩まされていたのは、仕事のオーバーフローによるものではなく、自分の自由な時間が確保できない苛立ちのせいだったのでしょう。

 

あの頃は仕事用の携帯電話を手放せませんでした。いつどのような仕事が降って来るか分からない – そのような状態が続くと、“何もないうちに”自分のやりたいことを済ませておかなければならないと言う焦りが生じます。そのため、私の週末や家族旅行はとても忙しない時間になっていました。

 

家族旅行は大概土日をくっつけて二泊三日あるいは三泊四日程度のものでしたが、朝から晩までみっちりと予定を詰めました。妻に「出張ではないのだから、もっと落ち着いたらどうか」と文句を言われても、会社の携帯電話が鳴って全てが台無しになる前に自分の時間を楽しんでおきたい – 私はそんな思いに駆られ、楽しいはずのひと時の間も気が休まりませんでした。

 

取り戻した自分時間

妻の言うとおり、慌ただしいスケジュールで動き回ることは、決して楽しい思い出作りにはならず、予定をこなしただけで終わってしまいます。今でも妻や娘たちから、当時の私は夫あるいは父親の義務として、“仕方なく”家族サービスをしていただけ、と嫌味を言われます。私に反論の余地はありませんでした。

 

自由な時間がほとんど取れない状態では、「あれもやりたい、これもやりたい」と言う思いが募り、実現できない焦りが膨らむばかりです。

 

かつて、通勤電車の中での読書では、降りる駅が近づくにつれてページを捲るスピードが上がりました。自由な時間が限られていた私は、本を読み進めることしか頭になく、読書を楽しむゆとりがありませんでした。わずかな休暇もまた然り。私には全てにおいてゆとりが無かったのでした。時間の無かった頃の私は、そのようなことを考える“ゆとり”すらありませんでした。

 

「自分の時間を取り戻した」と言うのはやや大袈裟ですが、今の私は自分や家族のために必要な時間を持てるようになりました。家事に費やす時間は以前と比べて増えたので、自由時間が増えた=暇になった、わけではありませんが、何かに追い立てられるわけでなく、自分が自由に使える時間があると思える余裕が心の中の焦りを払拭してくれました。