積読解消
長続きしている趣味と言っても私の場合、ありきたり過ぎて、趣味と言えるのか暇つぶしなのか自分でもよく分からなくなることがあります。
時間が無ければ趣味に興じることは出来ないのか、あるいは時間を割いてでも没頭したくなるのが趣味なのか - 私にとっての趣味はオフの時間のガス抜きの役割が大きいので、ライフワークと呼ぶ域に達するものではありませんが、将来、完全にリタイアした後の生活に潤いを与えてくれるような趣味をひとつでもふたつでも持っておきたいと思っています。
最近、ようやく“積読”が解消されました。読まずに溜め込んできた本は、書店で気をそそられて買ったものの、時間が無いことを言い訳に本棚の前の“未読コーナー”で長い間埃を被っていました。
それら数十冊を数か月かけて読み終えましたが、またいつか読み返してみたいと思える本は残念ながらありませんでした。自分で選んだ“読みたい本”だったので、それぞれの本の内容に不満があるのとは違います。むしろ、楽しく読み進めた本がほとんどだったのですが、どこか、既視感ならぬ既読感のようなものを覚え、心に引っかかるものが無く、私の愛読書の仲間入りが出来ませんでした。
未読の本が無くなったところで本棚の整理をしました。今本棚にあるのは、これまでの幾多の整理の波を乗り越えて生き残ってきた本たちなので、簡単の手放せるものではありません。私の読書の成果が凝縮されているとも言えます。本棚の片づけはしたものの、処分する本はありませんでした。
するめ式読書
結局、最近かった“外れ”の本を古本屋で買い取ってもらいました。普段なら、そこでまた新しい本に手を伸ばすところですが、今回は控えることにしました。本を増やすなと家族から言われたのが理由のひとつで、もう一つ理由を挙げるとするなら、私が面白いと思うような本に出逢う機会が少なくなったことです。
単に私の感じ取る力が衰えたからなのかもしれませんが、擦り切れてボロボロになった愛読書をたまに読み返してみると、やはり愛読書だけあって、あっという間に心を読書の世界に持っていかれてしまいます。
思うに、良い本に出逢うと、それ以上の感動や衝撃を求めて次の本を探すようになりますが、次から次へと自分を満足させてくれるような本が現れるわけではありません。読書歴が長くなるほどに、自分にとっての愛読書を見つけることは難易度を増していくことになります。五十代半ばの私にとっては、新しい愛読書を見つけるのは砂金掘りのようなものなのでしょう。
自分の期待値を勝手に上げて、気に入った本が見つからないと文句を言っている私は、単なるわがままな読者でしかないのですが、しばらくは本棚にある愛読書の再読に時間を割こうと思っています。
不思議なもので、同じ本でも – しかも何度も読み返した本でも – その時の心の状態で内容の受け止め方は全く違ってきます。小説でも、自分が感情移入できる登場人物は、読むたびに変わることがあります。
お気に入りの本は、好きな楽曲と同様に、リピートして何度も読みたくなってしまうものです。噛めば噛むほどに味わいが増すようなものでしょうか。
本の場合、そんなスルメ式読書を続けても、その都度、立ち止まって文章やその行間を読み解こうとしたり、登場人物のセリフにツッコミを入れたりと、読者側の楽しみ方の自由度が高い気がします。だからこそ、読書は止められないのでしょう。(続く)