過去の穴埋め
妻が闘病生活に入ってから、我が家の食事は薄味になり、香辛料を使うようなものは控えるようにしてきました。以前はカレーも辛口のルーを使っていたのが今は甘口。当初は妻の分だけ分けて食事を作っていたのですが、私が面倒になったことから、家族全員同じ味付けにしてしまいました。当初は文句を言っていた娘たちも今では淡泊な料理に文句を言うことは無くなりました。
ところが、この週末、妻が「たまには辛いものが食べたい」と言い出し、それを聞いた下の娘が、せっかくだからとタイカレーのペーストを買ってきました。一番辛いグリーンでは無く、レッドを選んだのは娘なりの配慮なのかもしれませんが、ココナッツミルクでマイルドに仕上げたはずのカレーは、病人用としては少々刺激的過ぎやしないかと心配になる辛さでした。
そんな私の心配をよそに、妻は食事を残さずに食べ終えました。今の私にとって、妻は傍にいてくれるだけで幸せにしてくれる存在です。食事を食べる量、顔色に声の調子、変わりないかどうかは私が注意するようにしています。思うに、結婚してからこれまで、これほどまで長い間、相手の様子を気にし続けたことはありません。
一緒に家族として歩んでいたことに対して、私の中に妻を労わる気持ちはありましたが、私は思っていただけで満足していました。思っていれば相手に通じると信じ込んでいました。相手の体調の変化を気にしたり、ちょっとした気遣いは、やろうと思えばいつでも行動に移せたことなのですが、これまで私はそれを怠っていました。
おそらく今の私は過去に自分がしてこなかったことの穴埋めをしているのです。
悩みを楽しみに
また来週、抗がん剤の投与の日がやってきますが、妻にとってはその前の一週間が普通の生活を楽しめる貴重な時間なのでした。妻も私も、そして娘たちも、この三週間のサイクルを受け入れ、その中で楽しみを見出すようになりました。
三週間ごとに訪れる憂鬱は、治療が続く限り避けて通ったり逃げ出したり出来ません。妻本人が一番大変な思いをしているわけで、周りの人間が一緒に憂鬱になっていても良いことはありません。次の投与日までの一週間を妻に楽しんでもらえるような生活の場を作る – それが、娘たちと私の暗黙の申し合わせでした。
歳を重ねることも病気も、嘆いていても状況が変わることはありません。まだ受け止められる心の余裕があるなら、嘆いている時間を楽しむ時間に変えた方が良いはずだと、私は考えています。
これからもっと後になって昔のことを振り返った時、私は、今のように家族との時間を確保出来たことを人生の転機だったと感じるかもしれません。その前までの余計な悩みを取るに足らないものと捨て去ってしまったのは、私が自分の役割と注力すべき対象を再発見したからでした。
私はずっと些細な悩みを引き摺りながら生きてきました。もちろん、悩み事の無い人生を送っている人の方が珍しいのでしょうから、私が特別なわけではありません。
仕事の悩み、親との葛藤 ‐ 私の苦悩と言ってもその程度のものですが、常に頭の中にこびりついて離れないイライラの芽は、楽しい時間に専念することすら許してくれませんでした。
また、そのような悩みとは別に、過去の失敗や不快な出来事も、ふとした瞬間に脳裡を過ることが多々ありました。
かつての私は、目先の様々な悩みや先送りにしている悩みはいつまで続くのだろうか、死の直前には、上質の物語のように全ての伏線が回収されて終わるのだろうか、などと思い煩う時間が多かった気がします。
考えて見ると、これまで解決出来た悩みよりも、出来ずに放置してきたものの方が多かったようです。「もう過ぎたこと」、「頭を切り替えよう」と思いながらも、私はそれらに取りつかれできたのですが、個人的な悩みは、抱えていても何の役にも立たないことは、それらを払拭してしまうほどの大きな問題が目の前に現れた時によく分かりました。
私は妻の病気を「幸いなこと」などと思ったことは決してありませんが、治療に専念する妻を支えようと決断した時に、今ここにいる自分が個人的な悩みに暗澹としている暇はないと思うようになりました。身内の病を奇貨として現実逃避をしているのではないかと、他人から誹りを受けたとしても、自分が見出した「納得出来る答え」に勝るものはありません。