和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

所詮は他人

オロオロ

先日、上の娘が酷く落ち込んで帰って来たことがありました。持ち帰りの仕事があるからと、夕食も抜きで自室に閉じこもった娘。娘の部屋の前でオロオロする妻。こんな状況の時に私が心配するのは、娘本人よりも妻の方です。

 

娘が不登校になった時も、就職活動が上手く行かずに悩んでいた時も、本人はそれなりに苦しんでいたはずでしたが、そんな思い悩んでいる気持ちが妻に乗り移り増幅されました。おそらく、その夜妻は布団の中で悶々としていたことでしょう。

 

かく言う私も妻と同じくらい娘のことが心配でしたが、両親そろってオロオロしているわけにも行きません。我が家では、結局いつも私が冷静な素振りをする役回りなのです。

 

「もう子供じゃないのだから」。私は何度その言葉を口にしたか分かりません。親と子は一番近い存在だからこそ、距離感を見失いがちです。自分で解決出来る問題、解決しなければならない問題を、親が先回りして答えを見つけてしまっては、娘の成長を阻むことになる。しかし、突き放すことも出来ない。結局、見守ることしか出来ないのです。

 

翌朝、いつもの時間に起きて来た娘でしたが、泣き腫らしたような目をしていました。上司に叱られたのか、同僚と喧嘩をしたのか – いろいろと想像は出来ますが、私は娘に何があったのかは聞きません。妻や私に聞いてもらいたいことがあるなら、娘が自分から話すでしょう。今までもそうして来たのですから。身支度をして会社に行こうとしている様子を見ると、親が心配するほどの大問題を抱えているわけではないのかもしれません。娘が出かける時、私は普段どおりに、気を付けて行くように言って送り出しました。

 

所詮は他人

娘が出かけた後、妻は私に、会社の部下が相手だと親身に相談に乗るのに自分に娘には冷たいと不満を口にします。そんなやり取りも妻と私の間では“お約束”のこと。妻は本気の口論は望んでいないものの、その一歩手前の言葉のドッジボールのようなものを期待しているのではないか、自分の中のフラストレーションを解消するために私を利用しているのではないか – 最近私はそう思うのです。そう言う意味では、正しくはドッジボールでは無く、サンドバッグなのでしょう。もちろん、サンドバッグは私の方です。

 

会社の部下からの相談。それは私が仕事の一環としてやっていることです。“本人のため”ではあるものの、それ以前に“組織のため”と言う打算が働いています。

 

部下と上司は所詮他人。だからこそ、お互いに距離感を保ちながら相手の言葉を冷静に受け止めることが出来るのだと思います。これが仕事上の関係であることを見失うほどに親しくなってしまっては、相手の言葉を頭で考えられなくなってしまうのではないでしょうか。

 

どんなに相手が取り乱そうと無理難題を言おうと、私が冷静に聞く耳を持ち続けられるのは、やはり、“所詮は他人”だからなのでしょう。

 

ひとつだけ、私が、娘にはあえて言わずに、部下に事あるごとに言い含めていたのは、どんなに些細なミスでも報告することでした。自分の失敗を上司に知られるのは恥と思う人は多いのでしょうが、普段から軽微な判断のミスや注意不足によるミスを教えてもらうことで、上司からすれば部下と相談するための“下地作り”が出来ます。そして、失敗そのものを咎めるのではなく、部下と上司が一緒に対応する関係性を築くことが出来れば、話やすい環境も一緒に手に入ります。

 

そんな部下との関係構築は、私が試行錯誤して得たものでは無く、随分と昔に私が出向していた先の会社の上司が教えてくれたことでした。部下と上司は“所詮は他人”と言うのもその上司が口にした言葉でした。部下と上司は、所詮は他人だからこそ、距離感を保ちながら、それなりに親身になって相談に乗れるのだと思います。