和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

師走近く

例年

“例年”であれば、気の早い知り合いは、そろそろ忘年会の日程調整を始める時期です。体を労わらなければならない年齢故、飲み会が続かないようにと予定にはある程度ゆとりを持たせているつもりでも、久しく会っていなかった友人などから声がかかれば、つい無理をして顔を出し、翌朝胸のむかつきと胃もたれを後悔する – 私がそんな季節を楽しんでいたのは、随分と昔のことのように思えます。

 

外で飲む機会が無くなり、例年が例年で無くなってから三度目の冬を迎えようとしています。妻の体調が読めないので、家族旅行はもうしばらく我慢することにして、この年末年始も家でのんびりと過ごすことになりそうです。

 

昨年末は、妻の監修の下で私がおせち料理を作り、それとは別に地元のフレンチレストランのおせち料理を取り寄せました。これが私たちの期待を越えるものだったので、「是非来年も」と言う話になっていました。

食い意地の張った - と言うと本人に怒られますが - 下の娘は、年末年始の我が家の食生活を心配し始めています。そんな様子を見ると、どうやらまだ浮いた話も無く、それは、親としてはやや気がかりではあるのですが、一方で、いつまでも家族四人そろって過ごせるわけではないことを考えれば、今年も私たちと一緒に年の瀬を過ごしてくれるつもりの娘には有難さを感じています。

 

空白の気楽さ

少し前まで、それこそ、“例年”の年末年始は、私の母親の様子を見に行ったり、妻の姉兄家族と温泉に出かけたりして、家を留守にしていることがほとんどでしたが、ここ三年はのんびりまったりと家で過ごしていて、私としては、あちこち動き回るよりも静かに新春を祝う方が性に合っているのではなどと思っています。

 

考えてみると、私はこれまで、仕事上、立場上、家庭崩壊にならない程度の人付き合いは必要で、避けては通れないものだと思い込んでいました。

 

とは言え、都度都度のお誘いを指折り数えて待ち遠しく感じていたかと言うと、決してそうでは無く、本心では何となく足を運ぶのが億劫で、それでも、飲み会に顔を出せばそれなりに会話を楽しみ、こちらも相手を飽きさせないように話題を提供して、その場を盛り上げるように気を遣いました。

 

人との付き合いは、私にとって苦行ではありませんでしたが、そうかと言って積極的にカレンダーの隙間を埋めたいと思うほどの楽しみでもありませんでした。

 

これまでのように、師走が近づくにつれて埋まっていく夜の予定を、軽い面倒臭さを覚えながら見ていた頃と比べて、今の空白のカレンダーを前に感じる気楽さは、私が本来内向的で、人付き合いをそれほど必要としていない、むしろ避けられればそれに越したことは無いと考えているところから来ているのでしょう。

 

年末に限らず、年間を通じて外での付き合いが激減を通り越して皆無となったことで、私は自分や家族のための時間を増やすことが出来ただけでなく、頭の中の気遣いの領域が狭まり、精神的な慢性疲労のようなものも無くなりました。

 

平日・週末を問わず、夜はほとんど家族そろって食卓を囲むことが普通となり、家族そろってのんびりと過ごす年末年始が“例年”となりつつある今の状態に私は満足しています。

 

師走が近づいても私の心はゆったりとしています。