和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

わがまま姫と家来

わがまま姫と家来

妻と私の間では、新婚時代からの了解事項があって、具合が悪くて寝込んだ方はいくらでもわがままを言えることになっていました。

 

妻が風邪をひくと、私は、お気に入りのアイスを買いに行かされ、それを寝込んでいる妻にスプーンで掬って食べさせるのですが、今思い返すと、自分で食べ物を口に運べないほどの状態だったことは無く、私もそれを知っていながら妻のわがままにつき合っていたのですから、お互いに“お姫様と家来ごっこ”を楽しんでいただけなのでした。

 

私も具合が悪くて床に臥せっていた時には、妻に買い出しを頼むことがありましたが、さすがに妻に食べさせてもらうことはありませんでした。

 

ちなみに“家来”には命令を拒否する権利はありません。このルールは今でも続いているのですが、私が辟易したのは、妻が上の娘を妊娠している時でした。

 

つわりの酷かった妻はほとんど食事を摂ることが出来ませんでしたが、フライドチキンだけは体が受けつけたようで、私は三日と置かずに会社帰りに駅前でフライドチキンを買っていました。

 

炊き立てのご飯は匂いを嗅いだだけで戻しそうになり、野菜ももやしやきゅうりの匂いはダメだと言う妻でしたが、レモンをたっぷり絞ったフライドチキンは大丈夫で、しかも、普段どちらかと言うと小食の妻がそれに被りつく姿を見て私は圧倒されたことを覚えています。

 

週の半分以上同じ夕食が続くと、さすがに私は飽きてしまいましたが、それでも妻のつわりが落ち着いてフライドチキンから解放されるまで、私はノーと言えない家来として彼女と同じものを口にしていました。

 

遊びの続き

普段は気にもしませんが、体の不調が続いて食欲が湧かない時ほど健康の有難みを感じます。食べ物を美味しく頂けることは幸せなことなのだと思います。

 

妻が抗がん剤の投与を開始した頃、薬を投与した最初の一週間は倦怠感と食欲減退に苦しみ、次の一週間は微熱とお腹の不調に苦しみ、その後の一週間でようやく体調が戻って来る ‐ そんな三週間のサイクルを繰り返しました。

 

お医者さんからは、食べられれば何を食べても良いとは言われたものの、副作用の口内炎のせいで、当の本人は水やお茶くらいしか受けつけませんでした。それでも私は、妻に何か栄養になるものを摂らせたいと思い、野菜と果物のスムージーや冷静スープなどを作りました。

 

試行錯誤して妻が口に出来るものが分かるようにはなりましたが、病人用に一食分を別に作るのは一手間かかります。最初の頃はその手間を惜しむことはありませんでしたが、しばらくすると、私や娘たちが妻の食事に合わせた方が楽になってしまい、別々の食事を用意することはしなくなりました。

 

その結果、我が家の食卓には、くたくたに柔らかくなるまで煮込んだうどんや、辛くないカレーライスや麻婆豆腐が並ぶことになりました。辛くない麻婆豆腐はもはや麻婆豆腐とは別の料理なのですが、誰も文句は言いません。妻が食べ物を口に運んでいる姿を見られる安心感の方が料理の味よりも勝っていたのでした。

 

現在妻が投与している薬は以前ほど副作用が強く無いため、食事に気を遣うことはあまりないのですが、刺激物はお腹には良くないので、辛いものや塩気の強い食べ物は避けるようにしています。

 

もっとも、副作用が強く無いとは言え、抗がん剤を投与した最初の一週間の倦怠感や食欲減退はあるようで、妻が横になって過ごす時間の方が多いのは以前と変わりありません。

 

それでも、私にお気に入りのアイスを買いに行くようにせがむようになったのは、比較的体調が良いからなのでしょう。以前はそのような気力すらなかったわけで、私としては、わがままを言う妻が戻ってきてくれたことを嬉しく思いました。

 

今でも買ってきたアイスを横になっている妻に食べさせるのは私の役目のようです。妻もさすがに娘たちがいる前ではそのようなわがままを言い出すことはありませんが、今でも新婚時代のお遊びは、妻と私の間では続いています。