和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

通院の付き添い

三週間に一度、妻は抗がん剤の投与を受けています。倦怠感や吐き気、発熱やお腹の不調、それらがようやく治まる頃に次の通院日がやってきます。

 

そんな繰り返しは、そばで見ている私にとってもつらいものでしたが、今は比較的副作用の軽い薬になり、以前に比べると妻の体への負担も和らいでいるように見受けられます。

 

だからと言って、定期的な通院が憂鬱なものであることに変わりはありませんが、妻も私もそれを日常の生活に溶け込ませて、受け入れたふりができるようになりました。そして、副作用が鎮まって体調が快復するつかの間に、好きなものを食べたり小旅行をしたりと、ささやかな楽しみを見出すようになりました。

 

妻は当初、通院付き添いのために私が会社を休むことを快く思っていませんでした。私に「普通にしてくれていればいい」と妻が発した「普通」に私は引っかかりました。

 

風邪気味の妻を置いて出張に出かけたこと。休日の約束を仕事ですっぽかしたこと。仕事以外のほとんどを妻に任せきりにしてきた私の「普通」とは、妻をひとりで病院にやることなのだろうか。妻が過去の私の行ないに対する不満を「普通」という言葉に閉じ込めたのだとしたら、その時すでに私は妻にとって当てにならない同居人に成り下がっていたのかもしれません。

 

夫婦の関係はうまく行っている – そう思っていたのは私の独りよがりだったのか。私は、うまく行っているはずの相手から見放された、あるいは、見放されそうになっている自分に焦りを覚えました。

 

それから早三年余りが経ちました。

 

私が妻の通院の付き添いを続けているのは、妻から見放されそうになったからとか、今までの行ないに対するささやかな罪滅ぼしのためとか、そのような裏の意図があるわけではありません。

 

妻の本心は怖くて聞けませんが、もし、妻が内心、私を頼りにならないと思っていても、すぐに信頼を取り戻すことなど私にはできません。

 

しばらく前まで、私は、自分が妻にしてやれることは何なのかを考えてばかりいましたが、今は妻にしてやりたいことを思うようになりました。通院の付き添いもそのひとつ。後付けの理由かもしれませんが、今の私が心底そう思っているのなら、それでいいことにします。