和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

普通の一日

治療の終わり

妻は現在、三週間おきに抗がん剤の投与を続けていますが、それも来年の三月で終了します。

 

昨年に受けた手術で切除し切れなかったがんは、その後の抗がん剤による治療でも、大きさをほとんど変えずに残りました。妻のがんは寛解とはなりませんでした。彼女はこれからがんとともに生きて行くことになります。

 

治療後は定期的に検査を受けることになりますが、もし、遠隔転移が確認されれば、緩和ケアしか選択肢は無い、と言うのが主治医の先生の話でした。

 

先生からの説明を、私は - そして、たぶん妻も - 冷静に聞いていました。最初にがんの宣告を受けた時は内心とても動揺した私でしたが、これまで妻との対話を通して、“治り切らなかった時”のことも考えていました。何度も話して来た想定内の話だったので、妻も私も心の準備が出来ていたのだと思います。

 

来春には抗がん剤の投与を終え、やがて頭髪も元のように伸びてくるのでしょう。吐き気止めの薬や肌荒れの塗り薬も必要無くなります。私には妻の本当の苦痛を分かち合うことなど出来ませんでしたが、つらそうにしている様子は見るに堪えられないことがありました。私はがんの転移に対する不安はさておき、妻が薬の副作用から解放されることの安堵感を強く覚えました。

 

薬の副作用を除けば妻の体調におかしなところは見られず、今後、定期的な検査を怠らないことだけ気を付ければ、普通の暮らしが出来るのです。

 

病気がもたらした幸い

妻は薬を投与した最初の二週間、副反応に苦しみ、次の投与までの残りの一週間でやりたいことをし、食べたいものを食べる – この二年間そんなサイクルを続けてきました。

 

人一倍健康に気を付けていた妻が、まさかこんな闘病生活を送ることになるとは想像していなかったことでしょう。私も、親の介護に対する覚悟にばかり気が向いていました。しかも「介護」と言ってもまだ他人事で、私は自分がもっと先の将来に介護される側になることしか考えていませんでした。一緒に暮らす家族が病に倒れ、自分が介護する側に立つことなど、想像すらしていなかったのです。

 

だからこそ、このタイミングで、家族との時間や普通の生活の大切さを知ることが出来たのは、私にとっては幸いでした。

 

「普通の暮らし」。気がつけば、妻と私が一番望んでいるものは、今までとても近くにあった当たり前のものでした。普通であることは当たり前過ぎて有難みさえ感じませんでした。そんな普通のことを失いかけて、私たちは初めてその大切さを知りました。

 

私はこれまで、何となく、平均寿命まで生きることを前提に老後資金を考え、長く続けられるライフワークを探そうとしていました。その一方で、今をどのように過ごすべきかについては、とてもぼんやりとしていて、自分がその立場に追い込まれるまで、真面目に考えていませんでした。

 

もちろん、家族を養うための必要なお金を稼ぐことや、家事や育児など生活を回すことが、日々の暮らしなのでしょう。妻や私にとっても、つい最近までそうでした。

 

今は、自分の最期はどうなるか分からないからこそ、日々丁寧に生きることを心がけるようになった気がします。

 

妻や私にとって、今日や明日は特別な一日ではありません。何のサプライズも期待していない普通の日です。私たちは普通の一日を、普通に過ごし、普通に過ごせたことに感謝しながら生きて行くのでしょう。

 

もちろん、たまの外出や遠出の機会も増えるので、そんなちょっとしたイベントは生活に花を添えてくれるのでしょう。しかし、私はそれ以上のことを望みません。妻と私の生活に、映画や小説のようなドラマティックな展開は必要無いのです。

 

普通の夫婦らしく、普通の日が一日でも長く続けばそれで良いのです。