置き去りにした時間
小学生の頃、夏休みは一年の中での最大の楽しみでした。一か月余りの休みの間、宿題はそっちのけで毎日遊び回り、それでも飽き足らずに次の日が来るのが楽しみで仕方がありませんでした。
楽しい時間はあっという間に過ぎると言いますが、あの頃の夏休みは不思議ととても長く感じられました。成長するにつれて体感の夏休みは短くなり、仕事をするようになってからは、夏休みどころか季節の移ろいすら心から堪能しないうちに時間だけが過ぎていきました。
子どもの頃、自分のやりたいことをするために求めていたものが時間でした。大人になってからは、やらなければならないことを処理するために時間に追われるようになりました。
同じ時間であっても、自分のための時間と他人のための時間は全くの別物です。私は多くの時間を他者のために費やし、自分のための時間を置き去りにしたまま人生の折り返し地点を通過していました。
待ち遠しい明日
しばらく前のこと。それまで積んだまま放置していた未読の書籍を全て読み終え、また新しい本を買おうと思っていましたが、それ以来、書店巡りはしても本を買い求めることはしなくなりました。
その代わりに、本棚にある読み古したものを読み返すようになりました。以前との違いは、意識的にとてもゆっくりと本を読み進めるようになったことです。既読の書籍も読み方次第で新鮮に感じられます。すでに頭に内容が入っているものでも新たな発見に出会うこともあります。
かつての私の読書は、時間に追い立てられているような感覚がありました。会議の資料や部下からの報告書を読み込むのと同じく、楽しいはずの読書も読み込んで情報を得るだけのものに成り下がっていました。
仕事をセーブするようになってから、家族や自分のための時間は増えましたが、しばらくは、あの“追い立てられる”感覚から逃れられませんでした。
家事に要する時間、趣味に費やす時間、家族との語らいの時間 - 仕事とは関わりのないことでさえ自分を急かしていました。
上の娘に指摘されて、自分の行動に効率化や合理化を求めてしまうのは職業病の一種なのだと気づきました。自分や家族のために行なうものを、私は勝手に時間制限のあるゲームに仕立てていたのでした。
私がプライベートの時間をのんびりと過ごすことを意識するようになったのは、娘の一言が気づきのきっかけでした。無駄に時間を使うのではありません。楽しいはずの時間を心の底から楽しむためです。
何かに追い立てられることがなく、自分のやりたいことに費やす時間は、子どもの頃の私が当たり前のように手にしていたものでした。
私には毎日やりたいことがたくさんあります。小学生の夏休みのような、次の日が来るのが待ち遠しい日常 – それが、おそらく私が望んでいる生き方なのだと思います。