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空回りする人材育成

時間管理のマトリックス

私が若手社員だった頃に上司や先輩から読むように進められた本の中に、スティーブン・コヴィーの書いた「七つの習慣」があります。同著はその後超ロングセラーとなっているので、手にした方も多いのではないかと思います。

 

この本は自分磨きのための秘訣やそのための時間の使い方を扱ったものなのですが、本の中に登場する時間管理のマトリックスは、私の勤め先でも若手社員向けの社内研修用に講師が定番で使用する題材になっています。

 

時間管理のマトリックスは、個人の行動を重要性と緊急性のふたつの軸で仕切られた象限(四つの領域)に分類して、自分の価値を高めるために行なうべき行動の優先順位やそれぞれに費やす時間配分を考えるものでした。そして、重要性は高いものの緊急性の低い領域こそ自分の価値を高め維持するために必要不可欠で、それをどのように日々の活動に落とし込んでいくかが焦点となっています。

 

重要性は高いけれども緊急性の低いものとは、コミュニケーション能力の向上、スキルアップ、計画と準備、健康維持などが挙げられます。日々、〆切のある仕事に追われ、出席しなければならない会議や打ち合わせに時間を割かれてしまうと、知識の習得や人間関係の構築、そして心身のメインテナンスなどが大事なことだと分かっていても、つい後回しにしてしまいがちですが、そのような重要性の高い活動を習慣化させて実践することが肝要だとコヴィーは言っています。

 

空回りする人材育成

「七つの習慣」の出版から大分時間を下って、私の勤め先で “緊急性は低いものの重要性が高い”として着目するようになったものに人材の育成があります。

 

それまでは、社員のスキルアップは全くの個人任せでした。私が就職活動をしていた頃も、私の勤め先は「海外留学・企業留学制度あり」と宣伝していましたが、いざ入社してみると、それらは狭き門で、海外留学に出た社員は年に一人か二人でした。私は留学を希望しましたが、当時の上司から「手が足りない」と言われて人事部への推薦すらしてもらえませんでした。

 

私が就職先を決めたのは留学制度があったからだけでは無いので、それが就活生を釣るためのエサだったとしても根に持つことはありませんでしたが、思うに、当時の会社としては、海外留学や企業留学は報償であり人材育成を目的としたものではありませんでした。人材は業務経験を重ねていれば勝手に育つと考えていたのかもしれません。私が若手社員だった頃は社内研修制度すらありませんでした。仕事に必要な知識は独学で身に着けるのが当たり前。しかも、会社にいる間は勉強に費やす時間など取れないので、往復の通勤が勉強時間でした。私が幸運だったのは、当時出向していた関連会社に商社からの出向者もいて、私はその先輩社員から仕事に必要な知識を授けてもらえたことでした。

 

人手不足の兆候が表れ始め中途採用も思いどおりに進まないことを会社は漸く認めて、戦力の底上げの必要性に気づきました。また、各社員が思い描くキャリアパスと会社が提供する成長機会が合致していないことが人材流出の原因だとして - 問題の本質は違うところにあるのですが - 個々人の希望や特性を考慮した中期的な研修プログラムを用意するようになりました。

 

そのような会社の努力が功を奏しているのかと尋ねられると、私としては残念ながら胸を張って「イエス」とは言えません。もちろん、人材の育成はすぐに効果が表れるものではありませんが、それよりも、育成の対象である若手社員の離職率が高止まりしていることが、教育プログラムの効果を帳消しにしていると感じています。

 

人材育成に重きを置くようになった会社は、以前に比べれば少しはマシになったのだと思いたいところですが、依然として業務の緊急性ばかりに気を取られて“重要性”の見極めが出来ず、これが事態の改善を阻害するだけでなく、悪化に拍車をかける結果になっています。

 

また、会社が人材育成に力を入れる一方で、採用計画が思うように進まず、若手社員は何年経っても同じような仕事を強いられる状況にあります。後輩社員がなかなか入ってこないのですから、部署内ではいつまでも“下っ端”の扱いで難易度の高い仕事が回ってきません。

 

スキルアップのための勉強が必要」と言いながらそのスキルを磨くための実践の場が提供されないのですから、若手社員が会社の言行不一致に不信感を抱いたとしても不思議ではありません。

 

結果として、「人材育成」と言う言葉は空回りして成長したいと考えている社員の胸に響きません。自身のキャリアパスを真剣に考え、緊急性は無くても重要性の高い領域に注力しようとする社員は、別の活躍の場を求めて飛び立っていくことになるのです。