見えなかった有難み
この二年間で私が痛切に感じたのは健康であることの有難みです。食事を美味しく頂いたり、散歩に出かけたり、あるいはつまらないことで頭を悩ませるのも心身ともに健康であってこそ出来ることです。
妻はリハビリ勤務を始めてから表情が明るくなりました。張り合いややりがいは生きるための原動力なのだと言うことを改めて感じました。妻はまだ治療中の身でもあり、疲れの出ないようにしなければならないので、頑張り過ぎないよう私が見張り役になっています。
どんなに気をつけていても、予期せぬ病気や怪我に見舞われることは避けられません。私が出来るのは、日頃から摂生に努めるのはもちろんですが、健康でいられることに感謝することだけです。
私たちにとっての健康は、今まで当たり前過ぎて感謝することすら忘れてしまっていたものの一つですが、そのようなことに気づかされると、今まで見えなかった有難みが見えるようになってきます。
そのうちに
私にとってもう一つ感謝しなければならないものは時間です。今でこそほとんど毎晩家族四人で食卓を囲み、夕飯の後は他愛無い話に花を咲かせることが当たり前になりましたが、20代から30代頃の私にとって家族で食卓を囲むのは週末くらいでした。
平日は帰宅しても娘たちの寝顔を見るだけ。せめてその穴埋めをしたくて週末は出来るだけ娘たちとの時間を大切にしようと心がけていましたが、今になってみれば、そのような時間の使い方しか出来なかった自分を恥じる気持ちがあります。
かつての私は、時間に追われる毎日を過ごしている中で、そのような生き方に疑問を感じていても深く考えることを無意識に避けていたのだと思います。時間が無いことを言い訳に家族との貴重なひと時を蔑ろにしてきたのでした。
家に帰ればいつでも自分を待っていてくれる家族がいる。それを当然のことと考えていたために、家族との時間は、“そのうちに”、“仕事が落ち着いたら”いつでも作れると、自分に嘘を吐いてきたのでした。
一番可愛い盛りの娘たちともっと一緒にいられたら良かったのに、と願っても時間を戻すことは出来ません。自分のやりたいことや家族のためにしたいことがあっても、あの時の私には時間が無かったのです。何故なら、自分で時間を作ろうとしなかったからです。
会社員が稼げる生涯収入はたかが知れている。だからパイの切り分けが大事なのだと分かったようなことを言っていた一方で、もっと大切な時間の配分が頭からすっぽりと抜けていたのでした。
自分の部下が出来た時から、私は彼ら・彼女らにプライベートの時間を大切にするように言い続けてきました。かつての自分が出来なかったことを若い世代に言い聞かせても説得力はありませんが、それでも、あとに取っておけない時間だからこそ大切にしてもらいたいと考えていたことは確かです。
貯められないもの
自分や家族のための時間を大切にしようと思ったのは、妻の介護と自分の体調不良がきっかけでしたが、それは同時に自分の存在意義や役割を問い直す作業を伴いました。
いくらでも替えが利く会社の中での役割と家族の一員としての役割は、比べるものでも無く、無理に両立させなければならないものでもありません。自分の軸足がどこにあるのかが分かれば自ずと答えは見えてきます。
今、私の時間は家族中心に回っています。家族との時間を大切にするために、仕事をセーブさせてもらっています。それは、仕事の手を抜くのとは違い、手抜きにならないための前向きな選択だと私は信じています。そして、自分や家族のことをなおざりにしないための最善の策だと考えています。
仕事をセーブした結果、時間が足りないとボヤくことが無くなりました。ゆとりをもって仕事をこなせる状況であり、かつ、自分や家族のために十分な時間を費やすことが出来ています。
時間は取っておいたり貯めたりすることが出来ません。“そのうちに”とか“退職したら”と思っていても、その時には今の自分はいません。目の前にやりたいことがあるのならすぐに取り掛かるのが後悔しないための秘訣なのだと思います。
最近の私は時間が愛おしく思うことが増えました。これまでは、 - 特に仕事絡みで - 早く終わってくれないかとか、無駄な会議が永久に感じられることも多々ありましたが、自分が使いたいように使える時間は、いつまでも続いて欲しいと思えてきます。