和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

我慢不要

我慢不要

上の娘が転職して半月が過ぎました。給料は下がりましたが、自分の自由な時間が増え、夜もぐっすり眠れるようになったと言います。親としては、週末の寝坊は感心しませんが、娘が充電と称する惰眠をしばらくは見守ることにしました。

 

娘が変なことにならずに良かったと妻に言うと、娘を放っておくように言ったのは私だと詰られましたが、自分の子を心配しない親などいません。過保護な親を封印して娘に手を差し伸べるのを我慢していたのだと言っても後付けの理由だと撥ね退けられてしまうことでしょう。そう考えて、私は妻にそれ以上の抵抗はしません。

 

給料や報酬をコンペンセーションということがあります。給料を自分の差し出した時間や労力への補償と考えると、塩を語源とするサラリーよりもコンペンセーションの方が労働の対価をより正しく言い表していると思います。

 

それはさておき、仕事の対価はお金だけではなく、達成感や充実感、仕事を通じて広がる人脈、職場環境など、給与明細には表れない付加価値も含めて、自分の労力に見合っているかが肝心なのだと言えます。仕事に費やした時間や苦労はお金だけでは換算できません。

 

先日、従業員エンゲージメントについて記事を書きましたが、評価にメリハリをつけたり給料を多少引き上げたりしたところで、付加価値を高めることができない会社からは人材は流出し続けるのでしょう。

lambamirstan.hatenablog.com

 

まだ私が管理職だった頃、役員のひとりが中堅社員や若手社員の転職が止まらないことに対して、「堪え性がない」からだと物知り顔に語っていたのを思い出しました。

 

当然のことながら、若い人たちが“堪え性がない”から会社を去って行くわけではありません。昔と違い、今や転職しやすい環境になったのですから、能力やスキルの高い人たちは、職場に不満があれば我慢して居続ける必要がなくなっただけなのです。

 

常識の移り変わり

私は娘たちに転職を進めたことはありません。ただ、終身雇用制度や年功序列が遺物となりつつある世の中で、一つの職場に長く居続けるメリットが薄れてきたのは間違いないので、私や妻の働き方が良い手本にはならないだろうことは伝えてきました。

 

歳をとった人間の言う“常識”ほど当てにならないものはありません。私も若い頃、頭ごなしに“常識”を押し付けられたことが多々ありましたが、そのせいもあって、なおのこと娘たちにはあれこれとアドバイスするのを躊躇してしまいます。娘たちの世代と妻や私たちの世代とで、自分の人生の中の仕事の位置づけや、働くことの意味は同じではないのだと思います。

 

仕事選び、働きがい、生きがい。その土台となる常識や価値観は移ろいやすいものなのだと感じています。常識はいつしか非常識となり、新たな常識が生まれ、定着する - その繰り返しなのだと思います。私が考えることなど賞味期限の切れた缶詰のようなものなのかもしれません。むしろ、私の方こそ、娘たちや同世代の若い同僚から学ぶことが増えるのでしょう。