生きがいの向こう側
妻が乳がんの摘出手術を受けてから丸三年が経ちます。がんを全て除去することは出来ず、がん細胞が増え始めたり転移したりする可能性が残るため治療は継続していますが、状態は安定しています。
毎年この時期、健康診断の日が近づくにつれて妻は沈みがちになります。五年生存率、十年生存率。自分はいつまで生きていられるのか。妻との会話の端々から、彼女が生への不安と死の恐怖を感じながら生きていることが分かります。そんな妻に、私は励ましや気休めの言葉を見つけられずに、ただそばについていることしかできません。
妻の闘病生活を支えてきて、私は生きることをより哲学的に捉えるようになりました。今まで何も考えずに生きてきたわけではありませんが、生きがいの向こう側にある目的を意識するようになりました。
三年前の当時も今も、私は妻と寄り添い支えることに生きがいを感じています。それは私自身の励みにもなっているのですが、では、日々生きがいを感じながら暮らしている先に何か目指すものはあるのか – と考えるとよく分からなくなってきます。
もちろん、その答えが簡単に見つかるわけではありません。もっともらしい答えのようなものは捻り出せたとしても、たぶんそれは正解ではないのでしょう。そもそも正解などないのかもしれません。
生きるために生きる
私は汽車に乗っています。目的地の書かれていない乗車券を手に、同じ車両の乗客と仲良くなったり喧嘩をしたりしながら旅は続きます。
同じコンパートメントには、途中下車する客がいる一方で新たに乗り込んでくる客もいて、顔ぶれは変わるものの、車窓の外は同じような風景が流れていきます。
私や、私と意気投合した隣席の乗客もいつか途中下車するのは分かっていますが、どの駅で降ろされるのかまでは分かりません。旅が続くにつれ、「もうそろそろ」と思う一方で、もう少し同行者と一緒に車窓からの景色を眺めたい気持ちもあります。いずれにしても、旅の終わりは本人には分からないのです。
だから私は、いつ汽車を降ろされてもいいように、旅仲間との会話を楽しみます。途中下車は突然告げられ、お別れの言葉を交わす暇すらないかもしれないのですから。
白昼夢なのかある夜に見た夢だったのかはっきりしませんが、私は最近何度か汽車に乗って旅をする夢を見ていたような気がします。
目的地のない旅。旅そのものが目的の旅。そんな旅行に時間を費やすのも“あり”なのだとすれば、最愛の人と、できるだけたくさんの時間を共有すること - 生きるために生きることを目的に生きるのも悪いことではないのかもしれません。