和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

趣味あれこれ(2)

思い続ける趣味

私の妻は、結婚前から着物の着付けを習っていて、成人式や七五三の時期にはフォトスタジオで着付けのアルバイトができるくらいの腕前がありました。いつかは自分の教室を持ちたいと考えていた妻でしたが、二年前の手術以来、着物に触れることはなくなりました。部屋の片隅には練習用のトルソ(胴体だけのマネキン)が白布を被せたままになっています。

 

手術の影響で妻の左手にはしびれが残り、着付けに必要な握力がなくなってしまいました。そのことは事前に主治医の先生から説明されており本人も覚悟していたことです。手術前に娘二人に振袖を着せて写真を撮ったのも、妻なりに思うところがあったからなのでしょう。

 

妻にとっての着付けは趣味以上の、実益を兼ねたライフワークだったのだと思います。「だった」と言うのはいけないのかもしれません。私自身が妻にそれを否定させたのですから。

 

妻が娘たちに「最後の着付け」をした後、彼女は持っていた教本やトルソを処分しようとしましたが、私はそれを止めました。

 

いつかまた、以前のように着付けができる日が来るかもしれない、その可能性が残っている限り、妻には戻れる場所を用意しておきたいと、私は思ったのです。

 

趣味ではないもの

「パパは仕事が趣味だから」とは、まだ娘たちが小さかった頃に妻が度々溜め息交じりに吐いた言葉でした。私にそのつもりがなくても、仕事を理由に何度か – 何度も - 家族との約束を果たせなかったことがありました。そんな後ろめたさは妻の闘病生活が始まるまで続きました。

 

私自身、「仕事が趣味」と考えたことはありません。私が仕事に没頭していたのは、自分が勝手に作り上げた使命感や、承認欲求がそうさせていたのだと思います。

 

妻の術後二か月間、私は介護休業を取りましたが、その間、仕事から離れたことで禁断症状が出るわけでもなく、むしろ家事と介護に専念できた安心感や充実感を覚えたことを考えると、私にとっての仕事は - 経済的な意味は別として – それがないと生きがいを失ってしまう、というものではなさそうです。(続く)