親族の集まり
毎年、この時期になるとお盆の過ごし方を考えることになります。“考える人”は私ではなく妻です。義父母の法要をするかしないか、姉兄とのやりとりが彼女にとっては煩わしい年中行事になっているようでした。
昨年は義母の七回忌にあたる年でしたが、義兄二人がコロナに感染してお盆の集まりは中止になりました。さて、今年はどうするのか。妻は、先日中学校の同窓会に出席するために里帰りした際に墓参りも済ませたからと、兄姉に早々に予防線を張っていました。
義父母が鬼籍に入った後も、しばらくはお盆や年末に妻の兄姉家族と旅行に出かけたものですが、甥や姪も中年の域に差しかかり、そのような家族のイベントには顔を出さなくなりました。私たちの娘二人も、いとこが顔を出さない旅行はつまらなく、行きたがらなくなりました。
これから先、親族が一同に会する機会はほとんどなくなるのだと思うと一抹の淋しさはありますが、それも仕方のないことなのでしょう。
子の幸せ
家族同士の集まりはほとんどなくなっても、いとこ同士では時たま遊びに出かけたりしているようで、私たちの上の娘と義姉の娘 - 私たちにとっては姪 – はとりわけ馬が合うみたいです。
親たちがお盆の過ごし方で意見が一致しないのをよそに、彼女たちはすでに夏休みのプランを決めてしまったらしく、娘は妻に「お盆の集まりがあっても出られない」ことを伝えていました。
子どもたちはすでに子どもではなく、親と一緒に行動をともにしなければならない年齢はとうに過ぎています。かつて二十代だった頃の私を「おじさん」と呼んだ姪もすでに四十路になり、親元を離れて自活している立派な大人です。しばらく前に親族一同で温泉旅館に泊まった時、義姉が皆の前で「早く良い人を見つけてほしい」とか「孫の顔が見たい」と言うのを、姪はうんざりした顔でやり過ごしていました。
たぶん、姪が親族旅行に付き合うことはもうないのだろうと私は思っていましたが、そのとおりになりました。義姉が娘のことを自分の所有物だと思っているとは考えたくはありませんが、自分がそうしてきたように結婚して子どもを産み育てる生き方を娘に期待してしまっているのだとしたら、それはいつか失望に変わることでしょう。
人生に最適解など存在しないのですから、自分の子どもの幸せを願うことはあっても、親が考える幸せの形を押しつけるのは、子にとっても親にとっても無意味なことなのだと思います。