和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

罰ゲーム

ささやかな下心

私は特定の宗教の信者ではないので、前世もあの世も信じていません。その存在は否定しませんが、実際に自分で見てもいないものを信じることは出来ません。

 

この世界で生まれて、この世界で死ぬことになる自分は一度限りの自分です。自分が死んだ後、化けて出る方法を知らない私にとって、もう戻って来られないこの世界に残る術は、誰かの記憶の中に住まわせてもらうくらいしかないのでしょう。どうせ誰かの思い出の片隅を間借りするのなら、せめて迷惑をかけない良い住人でありたいと思います。

 

自分の身内や会社の同僚だけでなく、通りすがりの人にも親切でありたいと考える私は、たとえ偽善者と呼ばれようと、それがいつか良い住人になるために必要な“徳”なのだと考えています。

 

一度限りの自分なのであれば、刹那的に生きるという選択肢があったにも拘わらず、今のところ私はそちらの方には向かっていないようです。気楽に生きたいと思いつつも、どこかでそれを自制しているのは、一旦タガが外れてしまうと元に戻れないことを恐れているためか、あるいは、胸の奥底で格好つけたいという下心があるからなのかもしれません。

 

誰かの記憶の中でしか生きられないのだとすれば、出来るだけ見栄え良くしておきたいと考えるのは、あながち悪いことでは無いと思います。そういう意味で、私のささやかな下心が健全な部類に入るものだと都合良く考えるようにしています。

 

亡き人への愚痴

母と話をしている時、私は大抵聞き役に回ります。そのほとんどは身内の話です。

 

独り暮らしでほとんど外出することの無い母にとっては、自分の姉たちや子どもと電話で話すくらいしか他者と会話する機会がありません。情報が限られれば話す“ネタ”も自ずと限られてきて、母から聞かされる話は毎回似たような内容になります。

 

それは母の姉たちも同じようです。五人姉妹の末っ子の母には、存命の姉が二人います。母に聞くと、毎日のように姉妹で電話を掛け合っているようで、私としては「よく飽きないものだ」と呆れてしまいますが、母たちにとってはそれが数少ない、あるいは唯一の“娯楽”なのでしょう。

 

そんな姉妹の間のこぼれ話を聞かされるのが私です。ほとんどが身内の恥に関わるものなので、さすがの母も私の妻には話すことはありません。

 

先日母の様子を見に行った時も長話に付き合いましたが、一昨年亡くなった私の従姉 – 母からすれば姪 – の話題となり、生前、散々酷い目に遭わされたと愚痴をこぼし始めました。おそらく、最近自分の姉たちから聞かされた話に触発されたのでしょう。

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従姉の話はこれまで散々聞かされてきた私でしたが、すでに本人は亡くなったのだからもう許してやってもいいのではないか – そんな感じで私は母を諫めましたが、それでも母の話はしばらく続きました。その後の内容はほとんど頭に残っていませんが、私はぼんやりと、本人が死んでしまっても、その生前の行ないは関係者が生きている限り消えることは無いのだと考えていました。

 

事実は事実として残るにしても、死者への恨みつらみはどうすることも出来ず、それを思い出してみては、立てなくてもいい腹を立てることを繰り返すのは健全とは言えません。

 

罰ゲーム

亡くなった人に対して、どんなに罵詈雑言を浴びせようと、それは相手に届くわけでは無く、負の感情を抱く自分の時間を無駄にしているだけです。

 

一度限りの自分の貴重な時間を他者のために使うなど、知らず知らずに罰ゲームをさせられているようなものです。

 

最近の私は、時間を無駄にしないように ‐ 言い方を変えると時間を丁寧に使うように努めようとしているのですが、そうすると自ずと他者に振り回されない、他者に自分の時間を使わせないようにしようと考えます。

 

文句の一言も言ってやりたい相手なら、直接本人に言えば済む話で、その価値すら無いと思う相手なら、関わり合いにならないようにします。

 

一昨年あたりまでは、不意に沸き起こる負の感情と如何に折り合いをつけようかと悩んでいた時期がありましたが、ここ一年はそのような心の揺らぎがほとんど無くなっていることに気がつきました。

 

結局、自分のやりたいことややるべきことが増えてくると、余計な時間など無くなってしまうのです。

 

老い先短い母には、もっと自分のことを考えてもらいたいと思うのと同時に、私自身も人生の折り返し地点を通過した身として、自分のことを大切に考えて生きて行きたいと思っています。