親の死に目に会えないと

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老いる息子が背負う母

私の母親は今、地方都市で独り暮らしをしています。20年ほど前からリウマチを患い、数年前からは歩くのに杖が必要になってしまいました。そんな母と同居することも考え、妻も賛成はしてくれましたが、本人は独りの方が気楽だと言ってその話は立ち消えになったままです。

 

リウマチであることを除けば、母は口も達者で、今のところ痴呆などの症状もないので、すぐに介護が必要ということにはなりません。しかし、あと2年もすると80歳になる母親をこのまま放っておいていいのか、悩ましいところです。

 

母親とは長く感情的なしこりがあり、決して良い関係ではありませんでしたが、娘たちが生まれてから、少しずつ普通の親子関係に戻ってきました。子は鎹(かすがい)ならぬ、“孫は鎹”といったところです。

 

そんな母が半年前に手術を受けました。リウマチのため両膝に人工関節を入れるというものです。その後母はリハビリ入院中で、私はほぼ隔週母の見舞いのついでに家の空気の入れ替えをしに出掛けています。都内から電車を乗り継いで片道2時間半。最寄り駅でレンタカーを借りて母の家と入院先を往復します。

 

最初のうちは、大したことないと思っていた“週末の用事”でした。月に2~3回程度の母親の見舞いと家の掃除です。しかし、半年余り続けてみると体の芯が疲れている感じがします。私の妻も時折一緒について来て、家の掃除などを手伝ってくれるのですが、それも2か月に1回くらいにしています。夫婦で共倒れになってしまっては最悪です。私の頭にふと、これはもしや“老々介護”の始まりなのかという思いが浮かび上がりました。

 

家族と仕事

母の退院後の生活や私の関わり方などをいろいろ考える中、私の下した結論は、仕事の量を減らすというものでした。現在のポジションでは、時間外や休日出勤、急な出張を伴う業務が多く、時間的な余裕がありません。この状態で、仕事と週末の母親の見舞いを両立させることは無理だと判断しました。

 

先日そのことを直属の上司である担当役員に話し、閑職への異動の希望を伝えたところ、「もう上へ行けないぞ」、「部の士気に関わる」と、何とも話の噛み合わない、時代錯誤的な言葉を返されたため、その日の面談は物別れに終わってしまいました。

 

上司は、親の面倒を見るために出世の可能性を捨てるのは浅はかだと言い切ります。しかし、それは私のことを慮ってのことではなく、自分の“手駒”が一つ減ることを気にしているだけだということは、今までの付き合いから私が一番良く分かっていました。

 

私にとっては、家族と仕事は秤に乗せて比べる対象では無いのです。

 

父の死

その年の9月に私は北米の子会社に転勤となりました。妻を連れての初めての海外駐在です。妻は妊娠7か月目。会社との間で、妊娠中の妻を帯同することについて一悶着。結局妊娠・出産のリスクは全て自分で負うことを条件に(至極当然ですが)、妻を連れて行くことができました。

 

そして、12月半ば、長女は帝王切開で生まれました。両親には電話で一報を入れましたが、母は電話口で大喜び、父は淡々と喜びを噛みしめている様子が伝わってきます。翌年の秋、一時帰国休暇の時に娘を見せに行くことを約束して電話を切りました。娘の誕生で、これまでの親子の間のわだかまりが氷解した感じがしました。

 

当時は携帯で写真を送り合うことなど出来ません。両親に初孫の顔を見せるまでの間、定期的に写真を送ることにしました。まずは、最初の1か月で撮り溜めした写真を両親に郵送しました。年明け2月初旬のことです。当時の国際郵便でモノを送ると日本に到着するのに2~3週間はかかりました。

 

その月の半ば、私は両親の家に電話をしました。様子窺いと写真が届いたか確認するためです。珍しく父が電話を取りました。母は買い物に出ているとのこと。父は少し風邪気味で鼻声でしたが、それ以外は普段と変わらない様子。元々口数の少ない父はこちらの話に相槌を打つだけであまり話は弾みません。もうすぐ娘の写真が届くはずだから楽しみにと伝えました。

 

翌日の午後遅い時間。会社のミーティングルームで会議中の私を受付担当のスタッフが呼びに来ます。日本からの電話だが取り乱している様子で要領を得ないとのこと。私が電話に出ると、泣き震える母の声が聞こえました。「お父さん死んじゃった」。母は泣くばかりでこちらからの問いかけに応えることができません。私はこちらから電話を掛け直すと母に伝え、ミーティングルームにいる上司に事情を話して会議を中座しました。

 

親の死に目に会えない口惜しさ

風邪気味だったという父は、私と電話で話をしたその日の夜から急に具合が悪くなり、高熱のためベッドから起き上がれなくなったそうです。そして翌朝、母が様子を見に行くと顔が白く反応も無い様子。すぐにかかりつけの近所の医師に来てもらったようですが、その場で死亡が確認されました。死後数時間は経っていたようです。本当にあっけない父の最期でした。当時肺気腫を患っていた父でしたが、まさかたったの一晩でこんなことになるなど誰も想像していませんでした。

 

母から連絡があった翌朝、私独り帰国の途に就きました。通夜と葬儀は身内だけで執り行うこととし、通夜は私が到着するまで待ってもらいました。空港から電車を乗り継ぎ、最寄りの駅に到着した時には夜の8時を回っていました。タクシーで迎えに来てくれた母は、私を父の遺体が安置されている斎場に連れて行きました。

 

人は亡くなると、全ての苦悩から解放されるのだと知りました。退職後の父は、事業を潰してしまった自分の不甲斐なさもあってか、文字通り老け込んでしまっていましたが、目の前に眠る父の顔は幾分若返った様子すら感じられました。

 

私はそれまで、親が死んでもそれほど悲しまないのではないかと考えていましたが、その考えとは裏腹に涙が溢れるのを止められませんでした。転勤稼業の身、親の死に目に会えないことも覚悟していたはず。これまで親子の葛藤はあったものの、死ぬ前までには打ち解け合って終わりたいという思いもありました。娘が生まれたことでそのきっかけが出来、これからは“普通の親子”の関係に戻れるというささやかな希望を抱くことができた・・・そんな矢先の出来事でした。

 

こんなことなら、駐在なんかしなければ良かった。そうすれば、生きているうちに孫の顔を見せることもできたのに。自分の意地を張らずに父の仕事を継いでいれば・・・。もっと親のことを大事にしていれば・・・。様々な思いが脳裏を通り過ぎで行きました。

 

ほんの一時とは言え、顔を見るのも嫌だった父でしたが、異国からの電話が最後の父子の会話になってしまったことを私は酷く後悔しました。もっと話がしたかったと。

 

後悔しても始まらない

娘の写真は父が亡くなったその日届いていたようです。

葬儀やその後の片づけを慌ただしく済ませ、1週間ほどの休みの後、職場に復帰しました。仕事に追われていると、感傷に浸っている余裕は無くなります。母もこの当時はまだ元気だったこと、自分自身まだ若かったこともあり、いつの間にか仕事優先の生活に戻って行きました。

 

その気持ちに変化が生まれるのはもう少し先の話です。

lambamirstan.hatenablog.com

 

「いつでもできる」と思っていたことが、実は「今しかできない」ということに気がつくには、年齢と経験を重ねる必要があるのかもしれません。特に若いうちは、身近にいる家族に関して何かを思い立っても、「いつでもできる」という気持ちを抱きがちです。

しかし、歳をとると、若い時に経験した肉親の死が不意に身に迫ってくる瞬間があります。私の場合は、母親の病気と自分が自身の死を考え始めたことがきっかけだと思います。“後悔の念”は、父親が無くなった20数年前よりも今の方がずっと強いものがあります。

 

親孝行は親がいるうちにしかできませんが、自分が若いうちや親が元気なうちは、あまりそういう気になれないかもしれません。私自身がそうでした。「後悔しても始まらない」という言葉は、いろいろな人から何度も何度も聞かされてきたはずなのですが、身をもって体験してみないとその言葉の重みは分からないものなのですね。

 

親の死に目に会えなかった口惜しさは、永久に拭い去ることができません。母の見舞いに行くと、隣のベッドの患者さんが羨ましがります。身内の見舞いがほとんど無いのだと嘆きます。私は自分を親思いの“できた息子”だなどとは思っていません。父の死に目に会えなかった罪を少しでも軽くしたいという気持ちが自分を突き動かしているのだと感じています。