和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

親と子の結婚考 (2)

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流されない生き方

私たちが常識だと聞かされているものは、その時代を生きる人々の価値観に左右されて変化します。自分がかつて目上の人間から刷り込まれた“常識”だと聞かされた概念は、最早非常識になっていると言うことも起こり得ます。

 

生き方や働き方の多様性を受け入れようとする傾向の高まりに伴い、常識そのものに固執すること自体が、あまり意味を成さなくなりました。もちろん、遵法精神や道徳心など、普遍的な社会ルールが大きく変化することは無いのでしょうが、それ以外の、家族のあり方や仕事との関わり方など、個々人の“らしさ”を映し出す鏡は、半世紀生きてきた私の目から見ても、時と共に変化してきているのが分かります。

 

若い頃の私は、年長者の言う“常識”や“普通”をすんなりと受け入れることが出来ませんでしたが、それでも、全方位を敵に回すよりも、できることならどこかで折り合いをつけたいと考えていました。何事も話せば理解してもらえると信じていたのです。

 

しかし、私は、結婚前のかなり早い段階で、しきたりや慣習を頑なに守ろうとする相手から理解を引き出すことは、信心深い宗教家を改宗させるくらいに困難なものだと思うようになりました。妻の身内からは、“結婚式を挙げない” - たったそれだけのことが、土地の風習に沿わないとの理由で、思いの他大きな反発を招きました。しきたりを守れない人間は罪人とでも言わんばかりでした。私の身内からは、結婚式を挙げないのは“聞こえが悪い”からとの理由で反発されました。

 

結婚までの段取りを決めるだけでこれほど大騒ぎされるとは、私の想像を超えていました。妻は何とか穏便に収められないかと腐心していましたが、私はむしろ、ここで折れずに自分たちの考えを貫くべきだと思いました。

 

とは言え、これから親戚付き合いをしていく相手に喧嘩腰で向かうことはしませんでした。考えや意見は“丁重に”聞き置き、でも最後は自分たちで決めることを伝えました。そんなこともあり、私たちの結婚は当初の計画よりも数か月遅れることになりましたが、この遅れはその後の結婚生活を送る上で大きな意味を持つものでした。

 

私たちは、結納や結婚式を行なわないこと、多人数の披露宴の代わりに両家だけの食事会で済ますこと、食事会は会費制として祝儀は辞退、引き出物は無し。それらを双方の両親に納得させ、私たち夫婦の“お披露目”を行ないました。

 

その後の新婚時代、私たちは親や親戚から、何かにつけて「それが普通だ」とか、「お前たちは常識が無い」などと、何度と無く言われたものでした。心配性の妻はその都度頭を抱えて右往左往していましたが、そのような声に対して、私は、全て二人で決めることを繰り返し伝えました。

 

無責任な干渉

長く守られてきた慣習でも、時代の波に洗われることは避けられません。今を生きている人々の価値観にそぐわなければ淘汰されます。

 

話は逸れますが、葬儀も、ひと昔前は、会社の同僚や仕事関係で参列することが年に数回はありました。しかし、ここ数年は、葬儀は身内で行い、香典や参列を辞退する方がほとんどとなりました。気心の知れた身内だけで静かに故人を見送りたいと言う考えが増えてきているのだと思います。

 

さて、結婚式も然りです。私の勤め先でも、身内だけの食事会だけにしたり、届け出だけで済ませたりと、部署内で誰かが結婚しても、会社の人間が披露宴などに呼ばれることはほとんど無くなりました。私はそれで良いのだと思います。

 

結婚は家と家との付き合いとも言われますが、当事者の思いを二の次にして、親のプライドや親戚に対する面目を優先させるほど馬鹿げたことはありません。

 

私の知人の場合、身内だけで落ち着いた中で式を挙げたいと望んでいたにも拘わらず、ふたを開けてみたら、内輪がお祭り騒ぎをするだけで、本人たちの思惑とは全く別の結婚式・披露宴になってしまいました。もちろん、派手で盛大な披露宴も結構だと思いますが、大切にしたいのは、結婚する当人たちの気持です。

 

そして、もっと根本的なところで気づく必要があるのは、人生を一緒に歩む相手は自分で選ぶしかないと言うことです。

 

私の身内の中に、親から結婚の承諾を得られなかったために別れてしまった者がいます。彼女は今還暦を迎えようとしていますが、とっくの昔に亡くなった両親に対して、今でも恨み言を繰り返します。それは、独身で余生を送る羽目になったことに対してでは無く、愛する男性との間を引き裂かれたと言う被害者意識からなのでしょう。しかし、当時、男性よりも親の意見に従うことを選んだのは彼女なのです。

 

あの頃、もし、彼女が自分の10年後、20年後、そして、もっと先の未来を見据えていたら、違う道を選んだことでしょう。親が自分の人生全てに責任を負ってくれるわけでは無いのですから。

 

私たち夫婦を“常識知らず”と呼んだ身内のほとんどは、もうこの世にいません。そして、かつての常識は、今や常識では無くなりました。娘の一生に責任を負えない私たち夫婦が、彼女の生き方に無責任な考えを押し付けることは出来ないのです。