和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

いつでも会える

f:id:lambamirstan:20191026045002j:plain

妻の恩師

1月も半ばを過ぎました。ようやく正月気分も抜けた今頃になって、ある方から寒中見舞いの葉書が送られてきました。

 

妻宛のものでしたが、葉書なので認められていた文字が目に入ってしまいます。差出人は妻の高校時代の恩師のご子息からでした。ご主人が昨年お亡くなりになったこと、葬儀は身内で済ませたため、教え子たちに知らせるのが遅くなってしまったことが読み取れました。

 

早朝なので、妻はまだ布団の中で寝息を立てていました。わざわざ起こすまでも無いと、妻がいつも書き物をするキッチンの脇のカウンターに伏せておきました。

 

その方は妻の恩師でもあり、私たちの結婚式ではビデオ撮影と記念のビデオテープの編集までご厚意でして頂いた恩人でもありました。その頃はまだ教鞭を取っておられ、趣味で写真やビデオの撮影・編集をされていたで、自分の教え子の結婚式では進んで結婚記念のビデオをプレゼントするのを楽しみにしていたとのことでした。

 

私はその“先生”にお会いしたのは結婚式の時の一回だけでしたが、妻は数年毎に開かれる同窓会の場で先生と会っていたようです。

 

ちょうど私たちが海外駐在していた頃にも同窓会があったのですが、先生はその同窓会を最後に、教え子たちの前に姿を現さなくなりました。

 

先生は退職後しばらくして白内障を患い、視野欠損が進行してしまったために趣味の写真やビデオ撮影が出来なくなってしまったようです。それでも同窓会には必ず元気な姿を見せていたようでしたが、奥様に先立たれ息子さん家族に引き取られることになったために、住み慣れた地を離れなければならなくなってしまいました。

 

それでも、妻との間では毎年年賀状のやり取りは続いていました。私は白内障も視野欠損もどれだけ大変なことか分かりませんが、年賀状の先生の文字が年を追うごとに乱れて行くことから病気の進行を知りました。

 

思えば、昨年の正月、妻がぼそっと先生から年賀状が来ないことを口にしたことがありましたが、自分の闘病のこともあり、先生の近況をそれ以上気に掛ける余裕も無く一年が過ぎてしまったのでしょう。

 

朝食の支度が出来たと妻を起こした時、先生がお亡くなりになったことを伝えました。妻は飛び起きて、覚束ない足で階下に向かいました。

 

私は、先生の訃報を妻に告げるのは食事の後でも良かったではないかと後悔しました。寝起きに聞かせる話ではありませんでした。少し間を空けてから下の階に下りると、妻の嗚咽が聞こえてきました。

 

お世話になりました

昨年は、もう一人、私たち夫婦が親しくしてもらっていた方がお亡くなりになりました。妻の友人のご主人です。

 

奥様よりも一回り年上のご主人は、私たちの結婚式にも出て頂き、また、その後、お住まいになっている九州地方に私たちが旅行した際にはご自宅に招いて頂きました。その後も、数年に一回程度はお互いに行き来するようなお付き合いをしてきました。

 

ご主人は数年前に脳梗塞に倒れ、左半身の麻痺が残ってしまいましたが、リハビリの甲斐あって、杖無しで歩けるまで快復しました。その頃に一度、お互いの住まいから間をとって名古屋のとあるホテルに家族で集合し楽しいひと時を過ごしました。

 

ところが、昨年の秋、ご主人は再び病を患い入院することとなりました。私たちは入院の知らせは聞いていましたが、あのご主人のことだから、また元気になって戻って来ると信じていました。

 

しかしながら、妻が年賀状の準備を始めた先月初旬に、突然の訃報に接しました。このご時世ですから、葬儀は家族のみで執り行われ、私たちは最後のお別れに参列することが叶いませんでしたが、しばらくご無沙汰していたのが悔やまれました。

 

亡くなってから、「お世話になりました」と心の中でお礼を言うくらいなら、ご主人が元気なうちにもっと交流を深めることが出来たはずでした。

 

いつでも会えるなら、今

妻も私も、先生やご主人に、久しぶりに会いたいと思う気持ちと、その気になればいつでも会えると思い込んでいたところがありました。

 

もちろん、このコロナ禍の中では気軽に知人の顔を見に行くことも簡単では無くなりましたが、コロナ禍以前なら、その気になれば会って食事をしたりお茶をしたりする機会はいくらでも作れたはずなのでした。

 

人の最期は突然訪れます。会って話がしたい相手がいるなら、そう思った時が好機なのです。