和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

残酷な言葉

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寂しい死

先月、私の歳の離れた従姉が他界しました。70歳手前での死は、今の時代では早死にと言っても良いのかもしれません。

 

従姉は自宅で倒れ、そのまま意識が戻ることなく2か月余りを病院で過ごしましたが、おそらく本人は自分が倒れたことも知らずに息を引き取ったのだと思います。

 

このご時世、例え身内であっても見舞いは禁止、私は入院中の従姉に会うことが出来なかったばかりか、通夜・葬儀も参列できませんでした。喪主の従兄からは、小さな町ゆえ、東京から身内が葬儀に顔を出したことが知れると、町での生活に差し障りがあると言われました。コロナ禍の影響とは言え、身内の最期を見届けることが出来ないとは、何ともやるせない気持ちで一杯になります。

 

従姉は、まさか自分が突然死ぬとは思っていなかったはずで、やり残したことも多かったことでしょう。そのうちの一つは、彼女の娘との和解でした。その願いを叶えられずに、従姉は寂しい思いを抱いたまま亡くなりました。

 

従姉の娘なので、私にとっては姪にあたりますが、年齢は私のひとつ下。こちらの方がいとこ同士みたいな関係です。私自身、その姪とは30年近く会っておらず、つい最近まで消息も分かりませんでした。

 

大人たちの都合

従姉の母親 - 母方の伯母 – は、彼女を産んですぐに離婚し、数年後に再婚しているので、従姉と従兄は、父親の違う姉弟でした。従姉は継父とうまく行かず、高校を卒業すると家を出て、ある男性と同棲し、すぐに子供を身籠りました。しかし、従姉は自分の母親同様、子供 – A子 - を授かった直後に男性と別れてしまったのでした。手に職の無い、まだ10代の従姉が子供を養うことなど到底無理。当時はシングルマザーなどと言う言葉もありません。“片親”と言う世間の偏見を避けるため、大人たちの都合で、A子は子供のいない別の伯母夫婦の養子となりました。

 

それから十数年は何事もなく過ぎて行きました。従姉はその後、職を転々としながら何人かの男性と一緒になっては別れることを繰り返していました。また、度々親戚に金の無心をしたため、身内の間では厄介者扱いとなっていました。

 

一方のA子は伯母夫婦の子供として何不自由なく暮らしていましたが、従姉は何を思ったのか、ある日A子に自分が本当の母親であることを告白したのでした。A子に問い詰められた伯母夫婦は、善意の嘘を吐き通すことが出来ませんでした。A子は、身内の厄介者が実の母親だったことを知り、ショックを受けたものの、母親と一緒に暮らすことを望みました。A子が高校2年生のことでした。

 

しかし、今になって思えば、A子は伯母夫婦の世話になることが居たたまれず、実の母親との生活を無理に選んだのではないか、自ら母親の面倒を見ることを決心したのではないかと想像します。

 

それ以来、A子は親戚と顔を合わせることがほとんど無くなりました。私もそれまでは年に数回はA子と顔を合わせていましたが、A子が従姉と暮らすようになってからは会わなくなりました。

 

当時私は大学受験を控えており、親戚の集まりに顔など出す時間も無く、A子のことは気にはなりつつも、構っている余裕がありませんでした。母からのまた聞きでは、A子は高校を中退しアルバイトを始め、実の母との二人生活を支えていたとのこと。そんな話を聞いて、私は、実の親子が一緒に暮らすのが自然なのでは、と暢気に考えていたのでした。

 

遅い改心

私が社会人となってしばらく経ったころ、勤め先に従姉から電話がかかってきました。数年ぶりに聞く従姉の声から尋常ではない様子が伝わってきました。A子が家を出て行方が分からなくなってしまったのでした。私としても、しばらくA子に会っておらず、居所の見当もつきません。逆に私は従姉に何があったのか尋ねました。

 

その頃、従姉は地方都市の生花店に勤めており、A子も一緒に働いていたのだそうです。そして、ある日親子喧嘩となり、A子はそのまま家を出て行ってしまったのでした。喧嘩の原因を聞いても、従姉ははっきりしたことは言いません。

 

その週末、私は従姉を訪ねました。年季の入ったアパートの一室は、質素を通り越して、生活感を感じさせないくらいに物が無い部屋でした。憔悴しきった従姉は40代とは思えないほど老け込んでいました。私の記憶の中の従姉は、いつも派手な服に身を包み、昼間から酒を飲んでいるような不良中年のイメージでしたが、目の前の従姉は地味な格好をした初老の女でした。

 

私は従姉に捜索願を出すように言いましたが、従姉はそれを拒否しました。数日前まであんなに必死に娘の行方を捜していた従姉でしたが、A子を無理に連れ戻しても何の解決にもならないことが分かったのでした。

 

A子がいなくなってから従姉の様子は一変しました。従姉は、これまで親戚から無心した金を僅かずつでしたが返し始めたのです。これまで迷惑をかけ続けた親戚への謝罪なのか、娘への罪滅ぼしなのか分かりませんが、親戚への返済は死ぬまで続けていました。

 

親を許せる時

従兄は自分の姉が意識不明で入院している最中、興信所を使ってA子の行方を捜しました。彼女の居所は1週間も経たないうちに分かったそうですが、A子は自分の母親に会うことを拒絶しました。

 

親子喧嘩の際、従姉はA子を産んだことを後悔するような言葉を発したそうです。A子としては、高校を中退してまで親を支えてきた自分を否定されたことで、実の親でありながら、自分の人生を台無しにされたと言う恨みが爆発したのでしょう。

 

従姉の死後、従兄は改めてA子に連絡を取りましたが、A子の態度は頑なでした。これまで面倒を見てきた親のため、彼女は10代後半から何年も多くの犠牲を払ってきました。それを心無い一言で否定されたことが、彼女としてはどうしても許せなかったのでしょう。

 

時に人は心にも思っていないことを発してしまうことがありますが、言葉は口をついて出たら最後、取り消すことは出来ません。誰かにとって、それが残酷な一言だとすると、どんなに許しを請おうとしても許されるものではありません。子供にとっては、それは自分の存在を否定されることです。ましてや実の親の言葉は重みが違います。ほんの一言で親子関係が崩れることもあるのです。

 

親子の葛藤は、その一方がこの世にいなくなったことで、乗り越えられない壁になってしまいましたが、A子がいつか、亡くなった母親の思いに寄り添うことが出来る時が来るのではないかと思っています。