和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

記憶のささくれ

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つらい経験からの逃避

私は中年の域に差しかかるまで、嫌なことは早く忘れよう、気持ちを切り替えて前に進もうと意識していました。くよくよ悩むことは時間の無駄だと考えていたのです。

 

しかし、忘れようにも、負の経験をした時の相手の心無い言動や周囲の冷たい視線など、様々な情景が浮かんでくると、じっとしていられないほどの怒りや不快感を覚えることがありました。

 

結局は、思い出したくもない出来事にふたをしたり、逃避を試みたりしても、“無し”には出来ないのです。自分にとって嫌な経験ほど、大きく重いふたが必要になるのですが、いつか自分の方がふたの重みに耐えられなくなってしまう時がやって来ます。

 

自分が納得出来ていない結末やそれに伴う感情は忘れようにも忘れられません。ふたをして記憶の奥底に押し込んだつもりが、自分の意思とは関係無しに飛び出してくることがあります。到底逃げ切ることは叶わないのです。

 

感情を理解すること

逃げ切れないことが分かっていれば、受け止めるしかありません。つらい経験は身悶えするほどの痛みを伴うこともあるでしょうが、それを克服出来るのは自分以外にいないのです。負の経験は直視して、その存在を認めるしかないと言うことです。嫌な思い出をずっと引き摺って生きて行くのではなく、自分の財産として取り込んでしまうのです。

 

その当時の自分の中に湧き上がってきた感情と、それを思い返した時の自分の感情は同じものか、変わってきているのか。腸が煮えくり返る思いは何故消えないのか。反芻してもなお残る感情のしこりを、それでも理解しようと努めます。

 

怒りや憎しみ、自己嫌悪。心の中のどろどろしたものを消化できるのは自分しかいません。他の誰かが解決してくれるのを待つものではないのです。

 

知ったような口を利いている私でさえ、依然として不意に湧き上がる負の感情に出くわすことがあります。今は在宅勤務でほとんどの時間を家で過ごしているので、そうした悩みは非常にまれなものになっていますが、以前は、職場での誰かの他愛無い一言や、仕事の資料の一文など、何かをきっかけに負の感情が首をもたげることが時々ありました。

 

そのような負の感情に対しては、見ない振りをしたり逃げ回ったりするのでも無く、また、反対に立ち向かったりするのでも無く、誰かに責任転嫁もせず、自分を責めることもせず、あるがままに受け止めるようにしています。

 

ささくれの手当

「心がささくれ立つ」と言います。明らかに不機嫌だと分かるオーラを漂わせ、周囲の人々を不愉快な思いにさせる人がいます。自分の置かれている状況を恨んでも、近くにいる誰かに当たっても解決されません。ババ抜きのジョーカーのように誰かが引き取ってくれるわけでもありません。

 

自分の置かれている状況を誰かのせいにするのは、ある意味楽なことです。そこから抜け出そうと藻掻いて失敗しても、自分は悪くないと虚勢を張り続けることが出来るからです。

 

昨年亡くなった私の従姉は、母親の再婚相手と折り合いが悪く、高校卒業後に家を飛び出してからは自堕落な生活を送っていました。方々の親戚からお金の無心を繰り返す、その言い訳はいつも自分の母親でした。

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母親のせいで自分の人生が台無しになったのだからと、母親の姉妹にたかり続けました。その結果、親戚中の厄介者になるのは当然ですが、従姉はそれすらも母親のせいにしていました。うまく行かないことは全て母親のせいです。

 

もしかしたら、従姉は、心のどこかで、誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていたのかもしれません。しかし、自分の境遇を恨むばかりで、乗り越えようと努力する姿勢すら見せない人間を助けようとする奇特な人は滅多に現れません。

 

記憶の奥のささくれは、きちんと手当しないと、ふとした拍子に鋭い痛みを発します。その手当は他人任せにすることは出来ないのです。