和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

演者を降りるとき

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私の原風景

幼い頃の記憶はどこまで遡ることが出来るのでしょうか。私の場合は、幼稚園に上がる前の頃のある風景が、ふとした瞬間に蘇ることがあります。

 

母親から何度も聞かされたのは、私が病弱だったこと。生きてここまで大きくなったのが奇跡のようだと事あるごとに繰り返します。確かに、私自身、朧気ながらも、よく病院に通っていたことは覚えている一方で幼稚園での記憶はあまりありません。

 

確かに、小学校にあがるまで近所の同年代の子供と一緒に遊んだ思い出が無いのです。熱を出し、床に臥せる私に母が絵本の読み聞かせをしてくれたり、あるいはテレビを見たり、体調の良い時には、ひとり遊びをしたり – そんな毎日を送っていたことだけは覚えています。

 

さらに遡ると、まだ幼稚園に上がる前、母に連れられて病院を訪れ、注射をされる際に泣きわめき、その後に立ち寄った喫茶店で、泣き腫らした目でアイスクリームを頬張っている自分の姿がとてもリアルに脳裡に焼きついています。

 

よく、原風景と言う言葉を耳にしますが、私にとってそれは、町工場が軒を連ねる下町の外れにある商店街、そこを母に手を取られながら歩いている自分を第三者的な視点で見ている情景です。

 

たぶん、それは母から何度も聞かされた病院通いの話によって、私の中で脚色された心象風景として固定化したものなのでしょう。病院の帰りに“いつもの喫茶店”で一休みした、と言う話も聞かされていましたから、そのような刷り込まれた話から、勝手な物語を作り出してしまっていたのかもしれません。

 

三つ子の魂

持って生まれた性格と幼い頃に植え込まれた躾や習慣は、その後の人格を形作るのに大きな影響を与えるものです。上述のとおり、私は小学校に上がるまで、同年齢の友達と遊ぶことが無く、独りでいることの方が自然だったためでしょうか、成長してからもそれが苦になりませんでした。

 

むしろ、友達と遊ぶことにストレスを感じたことの方が多かったのです。それは、小学校から高校と進んでも変わらず、特段用事も無いのに、友人の誘いを断って自分の時間を選ぶことが少なくありませんでした。

 

この感情がとても微妙で、“誰とも付き合いたくない”と言うわけでありません。友達は欲しいし、彼女も欲しい。しかし、一度親しい間柄になった後に、その関係を維持するのに非常に神経を使いました。相手に気に入られること、相手に不快な思いをさせないこと、全て相手本位に物事を考えようとして、自分の気が休まる間が無くなってしまって疲れてしまうのです。

 

友人や彼女との付き合いを維持するのさえこの有様ですから、ちょっとしたすれ違いや諍いが生じた時に関係を修復しようと言う気持ちが湧き上がってきません。逆に、自分の心の奥底では、「このまま絶交してしまえば、気を遣わずに済む」と言う後ろ向きの考えが首をもたげ、本当にそうなってしまうことがよくありました。

 

男女問わず、親しい関係が長続きしない。独りの方が気が楽。唯一無二の親友と呼べる存在はその頃、一人しかいませんでした。

 

そのような状態に長くいると、自分は普通に人と付き合うことが出来ない人間なのではないか。どこか心に欠陥があるのではないかと悩むようになります。

 

演者を降りるとき

高校を卒業して独り暮らしを始めると、自分の悩みを深く考える余裕が無くなってしまいました。個人的な悩みよりも、生計を立てると言う現実的な問題の方が大きかったからです。

 

浪人時代から大学時代にかけて、いろいろなアルバイトを経験する中で、避けて通れない人間関係に晒されることによって、私は良い意味でも悪い意味でも、裏表を使い分けられるようになりました。それは、自分の本心を殺して、上辺だけ調子を合わせるような付き合い方を選ぶようになったことです。

 

大きな理由は、中学以来の唯一の親友を失ったことにあると思います。これは以前の記事で触れたので繰り返しは避けますが、人間関係を上手に維持出来ない私にとって、心底信用していた相手に裏切られたことで、誰かに心を許すことそのものに対し臆病になり、億劫になってしまったのでした。

lambamirstan.hatenablog.com

 

以来、今に至るまで、私には信頼できる相手は妻を除いていないと言う状況が続いています。大学の友人、勤め先の同僚、先輩。付き合いが続いている知り合いはいますが、腹を割って話が出来る相手かと自問しても、すんなりイエスとは言えません。

 

勤め先では同僚や若い世代からも“話やすい”と言われることがありますが、それは、私が話やすい人間を装っているからに他なりません。かつて人付き合いを苦手とし、独りでいることを好んでいた人間が、さも社交性のあるように振舞っているだけなのです。

 

人付き合いの悪い変人が、社交的な人間の振りをしていても、変人には変わりありません。本当の自分ではない役柄を30年以上演じてきた私は、もうそろそろ終わりにしても良いのではないか、と思うことが増えてきました。