和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

シンプルに生きる

身の丈に合った生活

私はこれまで投資と呼ばれるものをほとんどしてきませんでした。

 

唯一の例外は、最初の海外駐在後に始めた投資信託でした。妻と相談して、僅かながらのお金を勉強のために使うこととしました。

 

その時に妻と決めたことは、最長でも六十歳で解約すること。また、自分たちが想定する利回りで期待額を計算して、期待額に達したら六十歳を待たずに解約すること。その二点を予め決めた後は、年に一回口座を確認する程度で、ほとんど放置したままでした。とは言え、毎年、残高が増えた、減ったと心の中で一喜一憂するわけで、私にはそうなること自体がとても煩わしいものでした。

 

ローリスク・ローリターンだったはずの投資信託は、途中、リーマンショックで大きく値を下げましたが、約二十年間で元の倍以上の価値になりました。すでにその数年前には私たちの期待値を越えていたのですが、パフォーマンスが良かったことから何となくずるずると手放せない状態が続いていました。それでも、私が五十歳になったのを機に、その投資信託を解約しました。

 

今でもたまに思い出したように銀行から資産運用の勧誘電話がありますが、全て丁重に断っています。恐らく、私たちは再び資金運用に手を出すことは無いでしょう。少なくとも私は、もう当時のような“煩わしい”思いをしたいと望んではいません。

 

また、約二カ月前には、ドル預金のうち、駐在中の給与部分を円転しました。これは駐在期間中に受け取った給与の加重平均レートから、将来ある程度の円安になったところで円転すると予め決めていたからでした。

 

円安はその後も進んでいるので、最近資産運用に興味を持ち始めた上の娘は、「もう少し待っていればよかったのに。もったいない」と言いましたが、私としては、自分の欲目を判断基準にはしないので、“もったいない”と言う感覚はありません。自分が期待していた目標値を越えれば、それ以上を望む必要は無いのです。

 

銀行の預金では金利などほとんどつかない時代。長期間の実績から、投資信託の額を増やした方がいいのではとの考えが頭に浮かんだこともありました。ドルの円転も様子を見ながら少しずつ進める手もありましたが、そうしなかったのは、詰まるところ、私はそのような、平静を装っている振りをしていながら、時々ひょっこりと顔を表す自分の欲が嫌いだからなのです。

 

“足るを知る”を心がけていながら、どこかでそれを裏切ろうとしている自分がいます。欲深な自分に振り回されたくない – そんな思いから、余計なことには近づかないようにしているのです。

 

私にとっては、今の身の丈に合った生活を持続させることはリスク無しで実践出来ることで、お金を増やすことよりも – 少なくとも老後に向けた準備と言う点では - 自分たちには理に適っていると考えています。

 

必要以上に欲をかかず、今の境遇の中で得られる喜びを満喫出来ればそれで良し。そんな気持ちが歳とともに膨らんでいるのだと思います。

 

シンプルに生きる

曲がりなりにも子育てを終えた私たちにとって、手元のお金は将来の老後のための資金です。将来と言っても、それはすぐ目の前まで迫っています。お金はあっても邪魔になるものではありませんが、これからはもう、リスクを負ってまでお金を増やそうとは思いません。

 

今あるお金が、十倍とは言わないまでも、二倍になったら、将来の生活に対する安心感は高まるのかもしれません。あるいは、お金の大切さを忘れた生活を送るようになってしまうかもしれません。

 

所詮、お金は将来の不安を軽減してくれることは出来ても、自分を幸せにしてくれる保証にはなりません。将来の生活に必要な蓄えを取っておくことが出来たなら、それ以上のことはお金に頼らない方が良いのかもしれません。あれこれと欲をかくよりも、シンプルに生きる方が気楽で穏やかな暮らしが送れるのではないかと思います。

 

先週、母のところから帰宅して以来、ずっとそんなことを考え続けています。両親は、老後の蓄えを少しでも増やしておこうと欲をかいて痛い目に遭いました。不要な望みを抱いたばかりに、穏やかに送れるはずの老後生活を失いかけました。

 

母親の老後生活は私にとって一番身近な失敗例であり、私にとっての戒めになっています。老後を迎えた時、自分と自分を取り巻く環境をあるがままに受け入れることが出来れば、それが私にとっての幸せなのです。