和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自分の言葉と借り物の言葉

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刺さる言葉

毎年、仕事始めの日には社長の年頭挨拶があります。例年は本社の大会議室に役員・社員が集まるのですが、昨年と今年は“密を避けるため”、大会議室への入室は役員と一部の幹部社員だけに限られ、他の社員は自席あるいは自宅でライブストリーミングでの視聴となりました。

 

社長挨拶は十分足らずのもので何も心に残る言葉は無く、誰が聞いても部下が準備した原稿を読んだことが明らかでした。コロナ禍の中、わざわざ人を集めて他人の書いた原稿を朗読するくらいなら、社長からの年頭挨拶として社内にメールで一斉配信しても用は足せます。

 

私は30代半ばの一時期、役員の秘書を務めていましたが、当時、社長の交代時期と重なり、新社長の就任挨拶用の原稿を書かされました。原稿は上司が確認し新社長に届けたのですが、何の質問も手直しの指示も無く、就任挨拶の日がやって来ました。

 

前社長が演壇上の原稿に時折目を落としながら話すのとは対照的に、新社長は目の前に並んだ社員の顔を見ながら言葉を発しました。しかも、聞いていると私が書いた原稿とは似ても似つかない内容です。もっとも私の書いた原稿は当たり障りの無いものだったので、きっと新社長はその内容が気に喰わずに書き直したのだと思っていました。

 

新社長の言葉には聴いている者を惹きつける力がありました。通常、社長の挨拶では咳一つ聞こえないような場になりがちですが、新社長のウィットに富んだ話は社員からの笑いを誘い、堅苦しい雰囲気を解きほぐしてくれました。

 

自分の原稿が役に立たなかったことにショックを感じつつも、原稿を棒読みせずに自分の言葉で語り掛ける新社長の挨拶に私は感銘を受けました。

 

以来、社長は、在任中一度も部下の用意した原稿に頼ること無く社員に語り続けました。そればかりでなく、取締役会でも株主総会でも、ほとんどと言っていいほど、別の役員に話を振ることをせずに、自身の責任で説明を行なっていました。しかも、数字が全て頭に入っているところは、記憶力に自信の無い私としては、軽い羨望と嫉妬を覚えたほどでした。

 

それから、社長は三代変わりましたが、自身の言葉で社員に語りかける社長は現れていません。他人が書いた原稿をそのまま読むのは本人からすれば楽に違いありません。しかし、自分の言葉を持たない話し手の口から出てくるものは、聴き手にとっては上滑りのものにしか過ぎません。

 

どれほど美辞麗句を連ねても、借り物の言葉は簡単に見透かされてしまいます。反対に、たとえ話しぶりが朴訥であっても、それが自分の言葉で語られるものであれば、今風に言うと“心に刺さる”スピーチになり得るのだと思います。

 

考えて話す、感じたまま話す

以前、私が子会社に出向していた時、その子会社の社長は“原稿嫌い”で有名でした。自分の言葉で話すことに特段の拘りを持っていたようなのですが、時と場合によって、下で働く者の仕事を増やすことにもなります。

 

取締役会や株主総会では、失言はあってはならないこと。特に決算などの数字や業績内容の説明の誤りは、会社の信用に関わる問題になります。そのため、事務局は念入りに原稿を用意します。

 

もちろん、財務諸表の内容や事業の進捗状況を十分に理解出来ていれば良いのですが、部下の“お願い”に聞く耳を持たないボスは、えてして知らないことを知らないと言えず、理解していないことでも分かった振りをしてしまいます。

 

私は、件の社長と三年ほど仕事を共にして来ましたが、決算取締役会と株主総会の後には、必ず社外監査役から発言の誤りを指摘され、その都度、頭を下げて回ることになりました。自分の言葉で話すことに拘りを持つ人は、言葉に対して責任も持って欲しいと思ったものです。

 

他方、とにかく原稿が無いと一言も話せないと言う上司もいました。公の会議などならいざ知らず、部内の忘年会等でも、「原稿頼むよ」と一言。普段一緒に仕事をしている内輪の席なら、失言があろうが誰も気にしませんが、その上司は単に人前で話すのが面倒なだけのようでした。私は、「今までこの人はどうやって生きてきたのだろう」と疑問に思いましたが、確かに一対一の面談でも会話が続かない人でした。

 

良く考えてから話すのも大切なことですが、感じたままに話すことは、自分の人柄を相手に伝えるためには欠かせないことだと思います。