恥と緊張
若い頃の私は、人前で話すことが大の苦手でした。社内会議での案件説明。話の段取りを何度も予習したにも拘わらず、いざ本番となった瞬間に頭の中が真っ白になる。しどろもどろになって、暗記した“セリフ”をロボットのように話すだけで精一杯でした。上手く話そう、聞き手を惹きつける話をしようと自らハードルを上げてしまい、自分で自分の首を絞めていたのです。また、何か質問されて答えらえなかったらどうしようと、余計な心配ばかりを募らせて、勝手に緊張感を高めていました。
そのような緊張感の高まりの根っこには、過剰な自意識と「恥をかきたくない」と言う気持ちがあったのだと思います。聞き手に嘲笑われるのではないか、上司から話下手と馬鹿にされるのではないか。失敗することを恐れるあまり、心拍数が上がり、手に気持ちの悪い汗を握ることになるのでした。
何故、それほどまでに恥をかくことを恐れたのでしょうか。過去の自分を振り返ると、プライドを傷つけられたくない、ただ単にそれだけだったのだと思います。
もっとも、人前で話すことは場数を踏むことで慣れてきます。プロのアナウンサーでは無いのですから、立て板に水のように話す必要など無いのです。答えられない質問は後で調べればいいだけの話です。しかし、恥をかきたくないと言う気持ちは、ある時までずっと引き摺ったままでした。詰まらないプライドなど捨ててしまえば済む話なのですが、私はなかなかそれに気づくことが出来ませんでした。
私の部署にも人前で話すのが苦手と言う者がいます。自分の意見を否定されたらどうしようなどと、話す前から余計なことを心配するのは、若い日の私と同じでした。
見えない恥
さて、コロナ禍の影響でリモート会議が主流となる前までは、本部内で全員参加型のディスカッションが頻繁に行なわれていました。担当役員以下、本部の部員全員に発言権があったのですが、毎回発言する者は決まっていて、若手や中堅社員の中には、会議中一言も発さない者もいました。
ある時、担当役員がディスカッションの場で、“発言しない者は会議に参加する資格無し”と言い放ちました。どこか虫の居所が悪かったのでしょうが、その場の雰囲気は一瞬にして悪くなり、大した成果も無くディスカッションは終了しました。その後、私も含め部長職が担当役員から小言を聞かされました。要は、若い社員にもっと発言するように指導しろと言うものでした。
本部内のディスカッションは、本来役職の壁を越えてざっくばらんに意見を言い合うことを目指していました。当初は若手や中堅も積極的に発言していたのですが、それに対する担当役員のコメントと言えば、言葉尻を捉えてのネガティブな批判や頭ごなしの否定だったのです。実のある議論と討論ゲームとは見た目は似ていますが全の別物です。前者は目の前の課題に対して様々な立場から多様な知恵を出すことでより良い解決策を導き出すことが出来ます。後者は、ディベートと同じで、相手を屈服させられるか否かが目的であって、解決策に結びつくようなアイデアは出てきません。
そんなことが繰り返されれば、例え斬新な、あるいは建設的な意見を持っている若手がいたとしても発言したく無くなります。本質的な議論が出来ないばかりか、大勢の前で恥をかかされる可能性があるわけですから。若い人の意見に耳を傾ける姿勢が無ければ、フラットなディスカッションなど土台無理な話なのです。
・・・と言うようなことを、私が担当役員に話した途端に、「分かったようなことを言うな」と、私の言葉を遮る始末。上の人間が聞く耳を持たないと、組織が硬直的になる典型的な例です。
下の人間に意見を促すためには、多少言い回しが拙いとしても、その真意を理解しようとする努力が必要です。そんなことは考えなくても分かるものだと思っていた私が浅はかだったのでしょう。経験の浅い若手社員は、時にピントが外れた意見を述べることがありますが、それでも、その中のきらりと光るものを汲み取るのが経験を積んできた人間の役割のはずなのです。
若手社員が「こんなことを言ったら恥をかくのではないか」などと尻込みするようなことが無いよう、何でも話せる雰囲気を作ることこそ上の人間のすることなのです。それをせずに、逆に粗探しをしたり、話の腰を折ったりして持論を展開するだけなら、わざわざ大人数で集まって議論する必要など無いのです。
事業本部と言う大所帯の長として、担当役員の責任は重大であることに間違いはありませんが、職責の重圧から来るストレスを自分で対処せずに、下の人間にその捌け口を求めるようでは、組織の中の求心力など期待しようもありません。経営陣の一員として大恥はかきたくないのでしょうが、その担当役員に仕える側からしてみれば、自分のボスが感情的になっているのを間近で見るほど恥ずかしいことはありません。(続く)