和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

仕事の理由付け

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休み明けの気怠さ

年明けは4日が仕事始めでしたが、依然として正月休み明けの気怠さが抜けません。

 

休みに入る直前まで何と無しに高揚感を覚えていたのが、休みに突入した途端に休暇明けのことを考え気の重さを感じ始めました。

 

とは言え、今は責任のある役職に就いているわけでは無く、また、煩わしい社内調整的な業務も無いので、仕事で憂鬱になる理由がありません。それにも拘わらず、休暇明けの仕事が億劫に感じるのは、単に気が進まないからなのでしょう。

 

これまでにも何度と無く仕事が鬱陶しく感じられる時がありましたが、自分が心の底から没頭出来るものならば、ため息など出るはずも無く、体が自然と動くものです。そう考えると、30年余り携わってきた仕事は、私にとっては到底天職などであるはずも無く、生活の糧を得るための手段にもっともらしい理由付けをしていただけなのかもしれません。それを、長い間見て見ぬふりをして来たのは、やはり私のどこかに見栄があったのだと思います。

 

仕事の理由付け

仕事は生活の糧を手に入れる手段ですが、どうせ仕事をするならば – 職場で拘束されるのであれば - やりがいのある仕事、報われる仕事を手掛けたい。

 

就職した頃の私は、漠然とそのようなことを考えていました。しかし、現実には自分の思いどおりの仕事が出来ていたわけではありません。おまけに、時には仕事を干されたり、人間関係で苦悩したりすることもあり、おそらく、楽しい時期よりもつらい時期の方が長かった会社人生だったと思います。

 

それでも仕事を続けて来たのは、私が物事を“突き詰めて”考えることを避けてきたからです。なぜ、こんな思いまでして仕事を続けるのだろうと、真面目に突き詰めて考えると、仕事をする理由を失ってしまうからでした。

 

そんなことは、分かりきったことなのですが、分かりきっているからこそ考えないように、目を逸らして生きて来たのです。

 

仕事がワクワクすることの連続だったなら、月曜日の憂鬱は存在せず、連休明けの気怠さを覚えることも無かったことでしょう。

 

通勤時間も含めれば一日の約半分を仕事に拘束されています。それなりの意義を見出せなければ、自分の時間を犠牲にし続けることは出来ません。だからもっともらしい理由が必要だったのです。

 

もちろん、人によっては、仕事そのものに意義を見出せなくても、仕事を続ける – 続けなければならない – 理由はいくらでもあるでしょう。家のローンを抱えている人、子どもの教育費を稼がなければならない人。年金だけでは生活が成り立たない人。生活を維持するため、生きて行くために仕事を続けている人はいくらでもいますが、それと仕事そのものに価値を見出すことは別の話です。

 

仕事の意義は人生の意義と同じくらい厄介な問答です。厄介だから、頭に浮かび上がると振り払って考えないようにしていたのです。

 

新年早々、堅苦しいことを考えなくても良いのでは、と我ながら思いますが、時間があると余計なことが頭に浮かんでしまうのでした。

 

休みをのんびりと過ごすと、その時間が快適であればあるほど、休み明けがつらくなります。何となく仕事する気が起きないのは、私の本来の性格が怠惰だからなのでしょう。

 

今日で松の内も終わりです。そろそろ正月ぼけから抜け出さなければなりません。