和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

考えるゆとり (2)

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本音の自分

何かをじっくり考えるには、時間よりも心のゆとりが必要なのではと思いました。仕事でイライラしていたり、急いで片づけなければならないことに日々追われていたりすると、たまの休日も、何かに集中できずに、無為に時間を潰して終わりになってしまいます。

 

休みの日は時間が経つのが早く、夕方ともなれば、また明日からの1週間を想像して気分が落ち込むことになります。そんなことの繰り返しの1週間が1か月になり1年になり、歳を重ねて行きます。

 

それは、かつての私でした。30代半ばで心のバランスを崩しました。幸い、職場復帰を果たしてここまでやって来れましたが、その過程で、仕事一辺倒では無く、自分や家族を中心とした生活を送るべきと言うことを学びました。

 

仕事との関わり方を見直すことで、心身を健康に保つことは出来た気がします。しかし、ずっと長い間、何か肝心なことを見落としているような、座り心地の悪さに似た感覚が頭の隅に存在していました。

 

今ならそれが何かが分かるのですが、当時 - と言うよりも、つい最近まで – は、「自分と家族が生活の中心」とだけ考え、思考はそこで止まっていました。

 

過去の記事でも触れましたが、自分の本心と対話することはとても大事です。虚勢や体裁の仮面を外し、抑え込んでいる本音を知ることで、自分が本当は何がしたいのか、どうありたいのか - 本音の自分 - を客観的に理解することが出来るのではないかと考えました。

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濁りの無い心

しかし、現在の心境を知ったから、理解したからと言っても、心が満たされるわけではありません。今ある自分はどうやってここまで来たのか。これまでの道のり、選んだ道、捨てた道。自分がなぜそれらの道を選んだのか、捨てたのか、理由が分からなければ、これから先の進むべき道も分かるはずがありません。

 

何かを選ぶことは、何かを捨てることで、それぞれに得たものと失ったもの - 得られたであろうものと失ったであろうもの – が存在します。その時々の、自分が最善と信じる選択をするには、心が整っている必要があります。判断を誤らせるような気持ちの揺らぎ。判断を邪魔するもの。そのような心の濁りの無い状態を保つことが出来ないと、間違った道を選んでしまうことになるのだと思います。

 

何が大切?

自分は、あの時なぜ、「自分と家族が生活の中心」であるべきだと考えたのか。そんなことを思い返すようになったのもここ数年のことです。

 

自分は自分にとって大切な存在なのか。もちろん大切な存在です。自分のことを大切にすることが出来なければ、自分以外の誰かを大切にすることなど出来ません。

 

若い頃の私は、“大切な自分”と同じくらいに仕事も大切なもの、時には自分よりも仕事を優先させることも止むを得ないと言う考え方に囚われていました。与えられた任務を完遂し、その結果の責を負うこと。任された以上、途中で投げ出してはならない、最後まで“責任を持って”やり遂げる – 仕事に対する「責任感」を、私はそのように理解していました。

 

私の場合、若い時の上司からの励ましの言葉は、自分にとって本当の意味での励ましにもなりましたが、逃げ道を塞ぐ魔法の言葉でもありました。

 

期待を裏切ってはいけないと言う思いは責任感の表われですが、裏を返せば、責任を投げ出して、無能者だと思われたくない、恥をかきたくないと言う気持ちが、より強かったのではないかと思います。

 

もちろん、何事も中途半端では、やがて誰からも信用されなくなってしまいます。しかし、自分の処理能力ギリギリの状態で仕事を続けていれば、早晩“勤続疲労”に陥ることは目に見えています。

 

私がそのような状態にギブアップした時、もしかしたら、このまま仕事に復帰出来ないのではと言う気持ちもありましたが、「これでようやく楽になれる」と、安堵の思いが心を満たしていました。

 

戦線離脱したことを後悔していない、と言うのは負け惜しみなのも事実ですが、自分が完全に壊れてしまわなくて良かったとの思いが勝っている、と言うのが正直な気持ちです。

 

自分がここにいなければ、自分の人生を歩むことは出来なかったわけですから、守るべきものは仕事に対する責任感よりも自分であることは、考える必要のないことです。

 

そして、その自分を支えてくれる家族も同じく大切な、感謝すべき存在だと言うことも自明です。よく、家族を養うことを責任と捉え、その責任を果たしていることが偉いと勘違いしている人がいますが、外でお金を稼いでくることや、家事をこなすことは、偉いとか偉くないと言う次元の話ではありません。家族の役割の話です。

 

自分が家族から与えられているものを思えば、家族に対しての責任感では無く、感謝の念が自然と湧いてくるのだと思います – と偉そうに話す私は、療養中に家族と共に時間を過ごすまで、妻や娘たちを下に見ていました。自分が面倒を見なければならない存在。家族を養っていかなければならないと言う“責任感”。自分がこのまま仕事に戻れなかったらどうしようかとくよくよ考えていましたが、そんな私の方こそ、家族に励まされ、支えられていたのです。

 

妻が病に倒れた時に、私は自然と家族との時間を一層大事にしようと思いました。忙しない毎日でゆっくり考える時間はありませんでしたが、じっくり考える心のゆとりがあったからこそ、躊躇無く良い判断が出来たのだと思います。

 

雑多なことに追われる日々を過ごしていると、心の水面がごみや枯れ葉に覆われてしまいます。それを掃き清めることが出来れば、水面の波が収まった時に、そこに本当の自分が映し出されるのです。

 

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