和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

考えるゆとり (1)

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不器用な皿回し

物事をじっくり考えるには、そのための時間を確保することが大切ですが、それ以上に心の余裕が必要です。頭の中で思考を巡らすだけなら、その気になれば、トイレの中でも電車の中でも時間を取れますが、頭の中に整理できていない雑多なものを散らかした状態では、一つのことをじっくり考えることは出来ません。

 

大概の仕事は〆切があって、限られた時間の中で最善の策を考え出すことが求められます。私も会社員人生の中で、日々判断を求められてきましたが、即座に妙案が頭に浮かんだことは滅多になく、ほとんどは“及第点”のものばかり。ベストな策で無くても、仕事を停滞させないこと、前に進めることを優先させるためには、じっくり考える時間など無いのは止むを得ないことと思い込んでいました。

 

それは、皿回しの曲芸者が、回っている皿を一枚たりとも落とさないように動き続けているようなものです。そのような毎日を送っていると、心の中は常に忙しなく、何かに追い立てられているような錯覚に陥ります。

 

部下との打ち合わせでも、相手の話に耳を傾けている最中に、頭の中では結論を出そうとし始めます。話を聞き終えてから考えても遅くは無いはずなのに、自分は何をそんなに急いでいるのだろうと疑問に思いながらも止めることが出来ませんでした。

 

確かに、当時私は忙しい毎日を送っていましたが、一分一秒も無駄に出来ない、と言うほどではありませんでした。それなのに、何をそんなに急いでいたのでしょうか。つい最近まで、私は、「もっと時間があれば、良いアイデアが浮かんでくるのに」と、同じ言い訳を繰り返してきましたが、じっくり考えることが出来なかったのは時間のせいでは無く、心の持ち様が原因だったのではないかと思うようになりました。

 

頭の中のたくさんの皿を、一枚でも割ってはいけないと、そのことばかりを考えていたのだと思います。皿を割らないためには、細い棒の上から皿を下ろして片づけておけば良いだけだったのです。

 

グラスの中のさざなみ

新婚時代に京都に旅行した際に、興味半分で座禅体験に参加したことがありました。早朝の一時間ほどの座禅会では、雑念を追い払おうとしても、次から次へと別の雑念が浮かび上がり、心の落ち着きを得ることは出来ませんでした。

 

それまで、何かを考えるために集中しようと努力したことは多々ありましたが、何も考えない努力はしたことが無く、努力すればするほど、無数の蟲が地中から這い出して来るように雑念で頭が一杯になってしまいました。

 

あれ以来、座禅会に参加したことはありませんが、心を落ち着かせる方法には関心があります。過去の記事で触れましたが、私はイライラしたり嫌なことがあったりした時には、家の隅々まで掃除をしたり、包丁を研いだりと、別の何かに集中することに決めています。

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

刃先を砥石に当てる角度と包丁を動かすスピードを一定にすることに集中していると、不思議と雑念が湧いて来ません。そのことを発見したのがいつのことかは忘れてしまいましたが、気がつけばそれが私のガス抜きの儀式になっていました。

 

また、就寝前の30分から1時間ほどは何も考えない時間にしています。何も考えないと言っても、座禅を組むわけではありません。何もしないでいても、そこにいるだけで脈絡の無い雑念が浮かんでは消えて行くのですが、頭の上の蠅を払いのけるようなことはせず、そのまま放っておくのです。その日何か嫌なことがあれば、その時の感情が蘇ってくることもありますが、それをそのまま受け止める - 他人事のように眺めるままにして、やがて消えるのを待ちます。

 

以前は、嫌なことは忘れてしまおうと言う意識が強かったのですが、悪い記憶は蓋をして閉じ込めておいても、不意に抜け出してくることが分かっていたので、消化し切れない思いや蟠りは、むきになって葬ろうとするのではなく、頭に浮かんでくるままに放っておくのが良いと言うことに気がつきました。

 

たとえ、自分が誰かに嫌な思いをさせられたとしても、それをどのように受け止めるのかは自分次第です。友人が親身になってしてくれたことでも、自分の気持ちがささくれ立っていれば、“余計なお世話”と、折角の親切を素直に受け入れることが出来ません。結局は自分の感情は自分以外にどうすることも出来ないのです。

 

喜怒哀楽を抑え込むことは、かえってストレスの蓄積になってしまうので、無理は禁物ですが、グラスの中のさざなみを、わざわざ自分で揺すって大きくする必要もありません。グラスから手を放し一歩引いてみる - 私はそれで胸の閊えが取り除かれた感覚を得ることが出来ました。

 

そうやって、頭の中の余計なことがひとつひとつ片付いていくと、漸く何かをじっくり考える余裕が生まれてくるのです。(続く)