緊張感からの解放
去年の後半から手掛けていた大きなプロジェクトが一段落して、今月初めに私は部長の職を解かれました。妻の闘病生活が始まり、管理職の仕事を終わりにしたいと会社に伝えてから半年近く経ち、ようやく肩の荷を下ろすことが出来ました。
つい先月までの、時間がいくらあっても足りない状況では、仕事前に掃除や洗濯を済ませ、始業と共に仕事に取り掛かり、打ち合わせや上への報告をこなしていると、あっという間に日が暮れてしまいます。
幸い、娘たちがいてくれたおかげで家事が滞ることはありませんでしたが、仕事の忙しなさがそれで軽減されるわけでは無く、階下で臥せっている妻を気にしながら仕事をするのは、精神的にあまり良い状況とは言えませんでした。
先々週、部内の各担当にプロジェクトの総括を指示して、私の部長としての仕事は終わりました。最後に手掛けた仕事は、残念ながら成功したとは言えず、管理職としての有終の美を飾ることは出来ませんでしたが、これも私らしい終わり方なのだと思いました。
その総括には私も一関係者として加わり、自分なりの振り返りをすることにしているのですが、それから10日ほど過ぎても一向に仕事に集中できない日々が続いています。パソコンの前に座り、古い資料に目を通していても、気がつくと頭の中では仕事とは無関係の雑念が次から次へと浮かんでは消えて行きます。
思うに、忙しい時の方が、限られた時間を有効に使っていた気がします。日々何かの対応に追われ、雑念の入り込む余地などありません。時間が無いことで自分を追い込み、仕事に集中することが出来たのでした。
それが、ある日を境に両手に余る仕事が消え失せてしまうと、有り余った時間の使い道に困ってしまう事態となりました。任された仕事はあるにはあるのですが、今日明日を争うものではありません。今までの慌ただしさの反動からか、仕事に対する緊張感を維持できなくなってしまいました。
今、自分の心の中は、業務目標や組織目標といったプレッシャーから解放され、ようやく愁眉が開いた安堵感が9割9分を占めています。残りの1分は、仕事のモチベーションをどこに求めるかと言うかすかな不安です。
会社人生の終活の中で、自分が会社に貢献できることが残されているかを考えて行きたいと思っています。もし、それが見つからなければ、それが私のリタイアのタイミングなのでしょう。
のんびりの意味
先週末、暇になってから初めての週末を迎えましたが、とても不思議な感覚を味わいました。
これまでは、金曜日の夕方には、週末を迎えるちょっとした“高揚感”みたいなものを覚えるものの、いざ週末になると、たとえ家族との時間を楽しんでいても、頭のどこかで仕事のことを考える自分がいました。土日は仕事をしないと決めていたにも拘わらず、仕事のことが頭を過るとは、職業病以外の何物でもありません。そして、日曜日の夕方を過ぎると、翌日のことを思い気分が重くなってしまうのです。そんなことを30年近く繰り返してきました。
これまでの週末は、時間がもったいないと、折角の余暇すら何かに追い立てられるようなスケジュールで動いていました。ところが、先週末は、時間をかけて読書を楽しんだり、妻と昔のアルバムを広げたりと、久しぶりにのんびりと過ごすことが出来ました。仕事の意思決定の責任もありませんから、週末に会社関係のメールをチェックする必要もありません。
今までの自分からしてみれば、ぜいたくな時間の使い方です。しかし、私が本当に欲しかったものは、自由な時間よりも真に寛げる環境だったのです。いくら長い休暇を取って、素敵な観光地に旅行に行ったとしても、頭のどこかで仕事のことを考えざるを得ない状況であれば、心から休息を楽しむことなど出来ません。完全に仕事を遮断し、オフを楽しめる状態を作り上げることこそが重要なのだと改めて感じました。
何でもない月曜日
私にとって最大の驚きは、日曜日の夕方になっても心が穏やかだったことでした。仕事が嫌いだったのか、会社が嫌いだったのか、責任を負わされるのが嫌いだったのか。そのどれもが、理由として少しずつ当てはまるのでしょう。長い間、月曜の朝は気分が陰鬱で、それは前の晩から引き摺ってきたものでした。
ところが、先週の日曜日は夕飯の準備をしていても、食後に家族と話をしていても、一向に気分の落ち込みがやって来ません。もちろん、そんなものを心待ちにしているわけでは無かったのですが、毎週日曜日の夕刻に訪れるグルーミーマンデーのお化けが、予期せず姿を消してしまいました。
私は、何かに追われているような不快感の無い、完全なオフを楽しめる休日を手に入れることが出来ました。そして、月曜日は単に日曜日の次の日となりました。今まで嫌いだった月曜日が普通の日になったことが私にとっては、大きな喜びとなったのです。