つながり続ける世界
今のご時世、携帯電話を持たない人を探すのは難しいと思います。私の母は、その“探すのが難しい”部類に属しています。
母は八十半ばで独り暮らしの身なので、何度か携帯電話を持つように促したのですが、「固定電話で十分」と言い、息子の言葉に聴く耳を持ちません。結局、月に数回私たち家族が様子伺いの電話を母にかけることになります。私との会話は5分足らず、その後、妻に代わって、最後は娘たち。女性同士の話は尽きることが無いのですが、今もって不思議でなりません。ともあれ、母にとっては、義理の娘や孫たちとの長話が少ない楽しみの一つなのでしょう。
他方、家族がそれぞれ持っている携帯電話ですが、電話本来の使い方はほとんどしません。帰宅時間の知らせや買い物のお願いなどはすべてメッセンジャーアプリでのやりとりです。本当に便利な世の中です。
以前、私が会社支給の携帯電話を持たされていた時は、文字通り携帯することが義務付けられていました。もちろん、緊急連絡用なので、すぐに応答出来る状態でなければならないのは分かりますが、緊急事態などそうそう起きるものではありませんので、ほとんどが緊急では無い業務連絡のために使われていました。
誰かとつながり続けている世界では自分だけの時間を確保出来ません。常につきまとわれているような錯覚に陥ることもあり、何度も自分と“外”との間を分厚い壁で遮断してしまいたい衝動に駆られました。
役職を下りた時、私は会社に携帯電話を返却しました。今は、部内の上司や同僚しか私の携帯電話の番号知らないので、ほとんど仕事の電話はかかってきません。仕事のメールも就業時間以外は開きません。仕事とつながらない時間、自分だけの時間を確保出来たことで得られた心の安らぎは代え難いものです。
つながりたい相手
かつて、会社から一歩外に出れば、仕事と切り離されプライベートの生活を楽しむことが当たり前の時代がありました。知り合いとの連絡は今に比べれば不便ではありましたが、それはそれで情緒があって、私は嫌いではありませんでした。
まだ、妻と結婚する前のことです。週末のデートは前日までに電話で待ち合わせの時間を決めます。当日、私は駅前で妻を待っているのですが、一向に現れる気配がありません。携帯電話が普及するのはもっと後の話です。待ち合わせ場所でお互いの居場所を確認する術はありませんので、そんな時は仕方なく駅の伝言板(黒板やホワイトボード)にメッセージを残して、馴染みの喫茶店で時間を潰すことにします - そんな感じで、実際に相手に会うまでヤキモキしながら待つのが普通でしたが、そんなヤキモキした気持ちで相手が現れるのを待つのも今思えば楽しみだったのでした。
また、相手とつながっていられるのは、直接会っている時か電話で話している時なので、相手の表情や声音を読み取って、返す言葉を選ぶのにも気を遣ったものです。
今、家族の間で暗黙の了解事項になっているのは、メッセンジャーアプリで愚痴らない、言い合いはしないことでしょうか。言葉足らずは誤解の素、生の言葉に勝るものは無いと思っています。
気持ちを留め置く場所
今、職場では出社と在宅勤務が半々の状態なので、内線電話の出番はほとんど無くなり、隣りの同僚と直接話をする機会もありません。簡単な用件はチャットで済ませてしまいます。通常の会話と遜色ないスピード感で“会話”が出来るので、複数の相手と同時並行的にやり取り出来るのは大きな利点だと思うのですが、チャットでは相手の顔が見えないので、私のような古いタイプの人間としては、好んで使う道具にはなっていません。
チャットは – そして、メールも然りですが - 自分の都合の良いタイミングで相手に言葉を投げかけることが出来ます。ただ、そこには相手の都合と言う視点が欠けてしまいがちです。
電話しかなかった時代、夜間や週末にどうしても相手と連絡をつけたくて電話をかけるとなると、まずは相手の都合を考えます。もちろん、今も昔も相手の都合などお構いなし、と言う人間はいましたが、そういう人間は稀でした。
これは、私の勤め先だけなのかもしれませんが、相手の都合を考えない人間の方が多くなってしまった感があります。チャットやメールで多く見られるのは、夜間や週末に、「明日で構わないので」とか「週明けの対応で結構なので」と、仕事の依頼をしてくるものです。明日や週明けでも良い用件なら、わざわざ相手がオフの時間に伝言する必要など無いのです。自分が言い忘れないように覚えておけば済むのですから。
結局は自分のところにあるボールをさっさと誰かに投げてしまうことで、自分が楽になることしか考えないからそのような行動に出てしまうのだと思います。
道具が便利になった分、相手への気遣いが希薄になってしまうのだったら、それは残念なことです。誰かにお願いしたいことがあっても、以前なら相手の事情を考えて自分の気持ちを留め置いておくことが出来ました。今は気持ちを留め置く場所を持たない人が増えてきました。