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本心はどこにある? (1)

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自分のものさし

前回の記事の最後で、自分にとって必要か否かの判断は、自分の胸に聞くべきということを書きました。

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

世間体と虚栄心の共通しているところは、周囲の人々の目に対する意識と言う点です。他者が自分をどのように受け止めるのかをものさしにするということは、物事の決定権を他者に委ねることと同じです。

 

人を戒める時に、「そんなことをしたら世間に顔向けできないぞ」という手垢のついた言い回しがあります。これこそ、他者の目を善悪の判断基準とするものに他なりません。

 

ある意味、これはとても楽な道です。なぜなら、自分で考える必要が無いからです。自分の行いについて、誰かに問われても、「それが世間の常識だから」の一言で片づけることが可能になります。しかし、それでは、自ら選択肢を狭め、自分の思いにふたをして生きて行くのを強いられることになります。

 

本来、善悪の判断や、“すべき・せざるべき”の判断は、自分が生まれてから蓄積してきた知見や経験によってなされるものであって、そこに他者が介在する余地は無いはずです。ところが、幼いころから、恥の文化に染まってしまうと、知ってか知らずか、他者の目を気にしたり、周囲に同調する習慣が身についてしまうことになるのです。

 

他者の価値観が介入すると、お葬式での故人や遺族の思いや、結婚式での当事者の願いが置き去りにされてしまうことだってあるわけです。

 

当然のことながら、他者とつながって生きている以上、万事ゴーイングマイウェイというわけには行きませんが、自分自身のものさしを持たないと、周囲に翻弄されて一生を終えることになってしまいます。

 

素の自分

実は、前回の記事を書いた後、私は、あの記事で「本心」としていたものが、実はものさしであって、本当の意味での「本心」は別物ではないかと考えました。自分の本心だと思ったものに対して、「本当にこれが自分の本心なのか?」と自問すると、途端に確信が揺らいでしまいます。自分でも確信の持てない本心を、自分以外の人間にさらけ出すことなど不可能な話です。

 

では、改めて、自分のものさしとはどのようなものなのでしょうか。本心や本音と言われているものは、どうやら、それだけではものさしになりそうにありません。なぜなら、本心の突き進むままに任せてしまっては、他者や自分自身を傷つけてしまう可能性もあるからです。ものさしは、本心をベースにしながらも、理性や道徳心で“ろ過”された判断基準であるべきでしょう。

 

とは言いながらも、ろ過される前の、包み隠さない本心 ‐ 素の自分 ‐ を知らずして、判断基準を決めるために必要な自分の軸足を固めることはできません。

 

では、素の自分とは何者で、どこに隠れているのでしょうか。

 

「飲ませて、本心を吐かせよう」とか、「本音で話せ」と言う時、本心や本音は、「嘘偽り無く思っていること」を指しますが、果たして、自分以外の人間に対して、素の自分をさらけ出すことなどあるのでしょうか。と言うのも、人の本心はそんなに簡単に姿を現すものでは無いからです。

 

自分の本心なのに、何故自分でそれを捉えることが難しいのでしょうか。それは、体裁や虚飾を排除しても、なお、人は格好をつけたがる生き物だからです。他者からは決して覗くことのできない、自分の内面世界の中でさえ、己に対して自分を良く見せたいという意識が働いてしまうのだと考えます。

 

プライドや理性や道徳心が素の自分を覆ってしまっていては、まだ自分の本心にたどり着いていないことになります。掘った先から波に洗われてしまう砂浜の穴掘りのような ‐ 本心を探ることとは、とてももどかしい作業の繰り返しなのかもしれません。

 

何が自分の本心なのか、どこに“素の自分”が潜んでいるのか。催眠術でもかけてもらって、潜在意識を覗いてみれば分かるものなのでしょうか。

 

人はいくつもの顔を持っています。外の世界では、周囲の人々から認識されている自分と、“このように見られたい”という自分。双方とも、自他の認識の差こそあれ、これは外の世界での自分のイメージであって、本当の顔ではありません。

 

他方、内の世界では、「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる自分と、普段姿を見せない“ありのままの思いを抱いた自分”が存在します。前者は“あるべき姿を演じている自分”であって、本当の顔ではありません。努力家、良き家庭人、思いやりのある人間・・・など、自分はこういう人間だと思っているものの、実は「そうありたい」と思い込んでいるイメージでしかないものです。そして、後者こそが、自分の中で唯一、本心を語ることのできる存在です。

 

素の自分が語るのが本心 ‐ ありのままの思い ‐ であることに間違いありませんが、普通、誰かに「あなたの本音は?」と聞かれた場合、素の自分がいきなり登場することはありません。

 

なぜなら、素の自分は、大抵、自分でも認めたくない自分だからです。(続く)