人並み
自分は人並みなのか、周囲の人間よりも優れているのか、劣っているのか – 他者と自分を比較しても、それで自分が変わるわけではなく、また、他者に対する優位性だけを求めて努力するというのも本末転倒です。
自分が誰かを羨んでも妬んでも、立場を入れ替えられるわけではありません。誰かの真似をしても、それで心が満たされるものでもありません。
子どもの頃、友人が新しいおもちゃを手に入れると、それと同じ物を親にねだった経験がありますが、今思えば、それは本当に自分が欲しかった物ではありませんでした。他者が持っている物は自分も持っていたい ‐ 子供心ながら、横並びの心理が働いたのでしょう。
人並みでありたい、出来れば他者よりもせめて頭一つ抜けていたい - 若い頃の私は、自分は決してそんなことは考えていないと否定しつつも、心の奥底で足許の土台が崩れ落ちないように必死にもがいていたのだと思います。
そうでなければ、家族を蔑ろにして、挙句の果てには心のバランスを崩すまで仕事に打ち込むこともなかったはずでした。私は仕事に生きがいを求めていたのではなく、会社の中で“人並み以上”の位置にしがみついていたかっただけなのです。
他人は他人、自分は自分
今の私は他人の評価を気にしないようにしています。もちろん、周囲の人々からどう思われても構わないと投げやりになっているわけではありません。相手に不快な思いをさせないような最低限の配慮は持ち合わせているつもりですが、相手がどのように自分を見るのかは相手次第なので、それを気にしてもどうにもなりません。どうにもならないことに一喜一憂するのは無駄なことです。
噂や評判は、それが悪いものであればなおさら、あっという間に広まります。それが事実であろうと無かろうと関係ありません。そして、当の本人が否定しようにも、一度広まり始めたものを止めることは出来ないのです。
私と折り合いの悪かった当時の上司が、方々で私の“悪評”を撒いて歩いた時、私は酷く傷つきましたが、私と言う人間を分かってくれている人たちは、それまでと変わらずに接してくれました。むしろ、悪評の真偽を確かめることをせずに“また聞き”を広めたのは、私と関わりの無い人々でした。
他人の噂を広めるのは、報復であったり、憂さ晴らしであったり、あるいは、誰かを貶めることで自分が優位に立てると勘違いした - と理由は様々なのでしょうが、いずれにせよ、それで何かが変わるわけではありません。
自分がどうありたいかを知るためには、自分以外の誰かの目は必要のないものなのです。