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自動車暴走死傷事故に思うこと

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過ちは敗北 

2019年4月に発生した、東京・池袋での自動車暴走死傷事故。その初公判が先日開かれました。

 

この事故を知らない人はいないと思いますので、ここでその詳細に触れることはしませんが、11名の死傷者を出した事故の被告人は、被害者やご遺族に形式的な謝罪はしたものの、自身の過失については完全に否定し、裁判で争う姿勢を示しました。

 

被告人のそのような態度に対して、多くの人が憤りを感じていることと思います。また、被告人が「上級国民として特別扱いされている」との批判の声も方々から上がっています。高齢者が加害者となる類似の事故が多発している中、本件事故の加害者が現行犯逮捕されなかったことや、事故直後のメディアの扱いが、他の同様のケースと異なっていたこと(“容疑者”で無く肩書を使用など)は、元高級官僚で「上級国民」は、一般人と扱いが違うのだと言う印象を多くの人々に強く焼き付けました。

 

上級国民云々の真偽はさておき、エリート官僚と言われる人々によく見られる態度が、ここでも表れていることに、私はうんざりしています。

 

もっとも、この手の話は官僚だけに限らないのでしょうが、成功を重ねて出世の階段を登ってきた人は、自分の過ちを認められないと言うのが私の印象です。全てのエリート官僚がそうだと断言するつもりはありませんが、私の勤め先の天下り組は例外無くそうです。

 

自分は正しい、自分が間違うはずがない、問題があるとすれば自分以外のところにあるはず。本件被告人はそのように願っているのかもしれません。ここまで築いてきた自分の地位や名誉、それに傲慢さが相まって、被害者やご遺族の方々の悲しみや苦悩に真摯に向き合うことが出来ないのだと思います。ブレーキとアクセルの踏み間違えが原因だと結論が出ても、最後まで自分の非を認めることは無いでしょう。

 

思うに、被告人はすでに自分に非があることを知っているではないでしょうか。しかし、それを認めてしまうことは、今までの自分の経歴の最後の最後、まさに晩節を汚すことになるので、認められないのだと思います。過ちを認めてしまうことは負けを意味するのです。負け知らずの人生を歩んできた人は、負けを認めることに人一倍恐怖を感じるのだと思います。

 

このまま裁判で争うことになれば、被告人の年齢からして、決着がつかない – 公訴棄却となる - 可能性もあります。被告人としては、自分に有罪判決が下される前に天寿を全うしたいと言う思いもあるのでは、と邪推してしまいます。

 

責任転嫁

そして、もう一つ気になるのは、被告人が事故の原因を「車に何らかの異常が起きたと思う」と、責任転嫁している点です。自分は間違ったことはしていない。問題は別のところにあるはず – 。

 

自分は過ちなど犯すはずの無い人間。事故を起こしたのは自分ではなく、“自分の車”なのだ。自分に非があるはず無い。

 

被告人が本心からそう思っているかは分かりませんが、そのように主張しなければ、自分のプライドが保てないのではないでしょうか。

 

しかし、車に異常があったかどうか、被告人が事故の直前にどのような操作をしていたのか、ブレーキを踏んだのか、あるいはアクセルを踏み続けていたのか、調べればすぐに分かることです。事故から1年以上も経っており、すでにそのようなことは調べ尽くされていると思います。言い逃れなどできるはずが無いのです。

 

それにも拘わらず、事実と異なることを主張する被告人に対して、私は憐憫の念を覚えます。華々しい経歴の持ち主が、自身の不誠実な姿を世間に曝け出して、人生の最終幕が下りるのを待つのです。これほど哀れなことはありません。

 

被害者に向き合うとは

自らの過ちを認めることが出来ない人間に、「被害者に向き合え」と言っても無理があります。自分の犯した過ちを直視し、それを受け止める勇気が無いのに、被害者やご遺族の痛みや苦しみから顔を背けないでいられるはずがありません。

 

恐らく被告人は、このまま、被害者やご遺族に対して罪を認め本心から謝罪すること無しに一生を終えることになるのではないかと考えます。

 

裁判は、被告人が起訴事実を否認したことから、長期化することは間違いないでしょう。これこそ被告人が望んだことなのだと思います。現実を受け入れることよりも、“自分の過ちを認めされられないこと”の方が大事。自分の経歴に前科者と言う汚名をつけられたくないと言う一心なのでしょう。

 

被告人が、少しでも被害者やご遺族の心中を察することが出来ていたなら、もっと早くに謝罪する機会もあったはずです。それが出来ない、未だに出来ていないと言うことは、被告人は現実を直視することよりも、審判の日を先延ばしにして自分が朽ち果てるのを待つことを選んだのだと思います。

 

残念なのは、被告人が、被害者やご遺族から目を背け逃げ回ること自体が、自らの晩節を汚すことになると理解できていないことです。