厚意と感謝

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気遣いの輪

電車やバスで、お年寄りや体の不自由な方に席を譲った経験がある人は多いと思います。逆に、具合が悪い時に席を譲ってもらい助けられた経験をお持ちの人もいるでしょう。

 

見ず知らずの人に手を差し伸べる時、無意識のうちに自分を相手の立場に置き換えて、“そうしてもらえたら助かるだろう”と言う想像力が働くから、自然と体が動くのだと思います。

 

交通機関での席の譲り合い然り、困っている人を助けることは、それによって直接的な見返りを求めるものではありませんが、そのような気遣いや思いやりが、やがて自分に返ってくることを期待しているからだと私は思います。

 

私や私の家族も、年齢と共にいつか体の自由が利かなくなる時が来るでしょう。また、ある日突然、不慮の事故に巻き込まれて体に障害を抱えることがあり得るのです。そのような時でも外出したり、社会との関わりを持ち続けたいと言う願いを叶えるためには、周囲の – ときには見ず知らずの - 人々の支えが必要になります。

 

多くの人々が、他者への気遣いの輪が広がり、心豊かな、安心して暮らしていける社会になることを心の底で望んでいるのだと思います。そのような思いが厚意につながるのだと考えます。

 

独りよがりの思い

今日、社会的弱者が生活しやすくするためのインフラ整備は進んでいるものの、必ずしも万人にとって十二分なものになっているとは言えないのが現状です。そのような環境の中、個々人の無償の善意が、高齢者や体の不自由な方をサポートする大きな原動力になっています。しかし、気遣いや思いやりは、見返りを求めない以上、自分から相手への一方的な厚意(行為)なのです。困っている人を助けるか否かは自分の気持ち次第です。それを高齢者や体の不自由な立場から見ると、助けの手を受けられるか否かは、相手の気持ちに縋る以外無いわけです。

 

そう考えると、見返りも無く強制力も無い思いやりは、良心ある個人の独りよがりの行為であり、それは受け手側次第で脆くも崩れてしまう危険を孕んでいると言えないでしょうか。見返りを求めないとは言うものの、手を差し伸べる行為に対して、それが当然とでも言わんばかりの振舞いをされたり、援助することを強要されたりすれば、潜在的支援者の反感が募り、やがて支援の輪から人々の心が離れてしまう結果にもなり得ます。

 

支えてもらう側が卑屈になる必要はありませんが、他者の厚意に対して感謝で応えることができなければ、思いやりの輪は潰えてしまうでしょう。

 

厚意と感謝

大分前に読んだネットニュース(と記憶していますが)で、こんな話がありました。中国では、路上で事故に遭遇して倒れていた人を救助すると、被害者が救助者を“加害者”だとして訴えることが往々にして起こるため、事故を目撃した人々は関わり合いになって自分が加害者にされることを恐れて、見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうのだと言うのです。その結果、助かるはずの命が失われる結果ともなるのです。

 

被害者としては、事故の賠償をしてもらえるのであれば誰でも構わないと言うことなのでしょうか。いずれにせよ、もし、これが現実のことなのだとすると、何とも嘆かわしいことです。国は違えども、もし私たちが同じような状況になったら、厄介事に巻き込まれたくないと言う気持ちを抱くことでしょう。

 

私たちの国では、まずそのようなことを心配する必要は無く、親切心が真逆の結果になることは考えられません。しかし、そこまで極端なことが起こらないにしても、自分の厚意が相手の心に届かなければ、善意の気持ちは萎えてしまいます。

 

大分前の話になりますが、私の知り合いは、社会的弱者の自立を支援したいとボランティアを始めたものの、相手方からの心無い言葉や支援されるのが当然と言うような態度、また、ボランティア団体から、支援活動を第一に考えるように強いられたことに嫌気が差して、一年余りの活動の後、ボランティアを辞めました。もう二度と関わり合いになりたくないと、その知り合いは言います。

 

ボランティアでの支援を、恩着せがましく言うのはもってのほかですが、善意の人々の厚意によって支えられている活動を、当然のこととして受け止める人がいるとしたら、思いやりの輪は成り立たないと思います。高齢や身体に障害がある人は、周囲の人々からの助けを享受することに卑屈になる必要はありませんが、支援を受ける特権があるわけではありません。無償の支援に応える術は、差し伸べた手が役に立っていることを言葉で伝えることなのではないかと思います。

 

厚意に基づく支援と、それに対する謝意、両方が噛み合うことで、人々の間に相互扶助の気持ちが広がっていくのだと考えます。