和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

世の中の中心

f:id:lambamirstan:20191026045002j:plain

老害予備軍

少し前に、公共の場で声を荒げて年下の人間を罵倒する高齢者の話を書きました。

lambamirstan.hatenablog.com

 

老害」と言う言葉がいつから使われ始めたのかは定かではありませんが、これだけ高齢者の数が増えれば、他人に迷惑をかける“老害”が目につくのもやむを得ないのかもしれません。

 

高齢化社会がさらに進めば、老害も増えることは受け入れなければならない現実です。しかし、年齢に関わらず、自分は間違っていない、自分が絶対に正しいと思い込んでいる者はどこにでもいます。あるいは、自分だけは大丈夫、自分に限ってそんなことは無い、と言う根拠の無い自信を持つ者もいます。

 

年齢を重ねることが、そのような傲慢さや自分への過信に拍車をかけると、「老害」と言われる老齢者になるのではないでしょうか。単に歳を取ったからそうなるわけでは無く、若いうちから「老害」の芽が心の中でゆっくりと育っていたからだと思うのです。

 

自分が世界の中心。自分を中心に周りが動いていると勘違いしている者は、老害予備軍です。かく言う私ももうすぐ高齢者の仲間入りです。驕りや過信は、自分が気づかないうちに体に沁み込んでくるもの。常に謙虚であることを肝に銘じたいと思います。

 

自分しか見えない

最近気になったニュースがあります。コロナ禍でテイクアウトが増えたことに伴って、ごみの“ポイ捨て”が急増したと言うものです。ごみの投棄の問題は今に始まったことではありませんが、食べ物や飲み物の持ち帰りの機会が増えたことで、辺り構わず捨てられるごみも増えました。

 

花火大会や祭り、近年ではハロウィーン。大きなイベントの後に大量のごみが残されている映像を皆さんもご覧になったことがあるでしょう。また、キャンプ場や川原でのバーベキュー。その後のごみ。中には、コンロなどバーベキューに使った道具一切を捨てて帰る者もいるそうです。繁華街の外れの住宅街では、食べ歩き、飲み歩きをした歩行者にごみをポイ捨てされる被害に悩んでいるそうです。

 

自分の家の前にごみを投棄されて平気でいられる人はいないはず。なぜ、他人の家の前なら平然とごみを捨てられるのでしょうか。もし、自分の家の前の、きれいな小川にごみが打ち捨てられていたら、どんな気持ちになるでしょうか。

 

自分の身の回りはきれいにしておきたいのに、他人の土地ならどうなっても構わない。自分のことしか見えない人間は、他人が大切にしているものに思いを馳せることが出来ません。しかし、そのような行為は天に唾を吐くことと同じで、いつか自分の身に返ってくるのです。

 

誰も見ていないから

最近は在宅勤務が多くなったので、朝、通勤のために最寄り駅まで歩く頻度は少なくなりましたが、以前は、駅まで歩いていると、しばしば散歩がてらごみ拾いをしているお年寄りを見かけました。誰に頼まれたわけでも無いのでしょうが、自分の住んでいる地域を少しでもきれいにしたいと言う心がそうさせたのだと思いました。

 

その一方で、上述のごみのポイ捨てなどは、持ち帰るのが面倒だから、誰も見ていないから、と軽い気持ちでやったことなのでしょう。しかし、ごみを捨ててはいけないところでごみを捨てることに何の後ろめたさも感じないのか、と言うと、私はそんなに悪い人間が世の中にたくさんいるとは信じたくありません。

 

親しい仲間と一緒にいると、つい気が大きくなったり、モラルが緩んでしまったりすることがありますが、一人になった時に、自分の行なったことに嫌悪感を覚えることもあるのではないでしょうか。

 

あるいは、一人の時でも、例えば、夜中に誰も見ていないからと、ごみを道端に投げ捨てることにわずかでも後ろめたさを感じることがあるのではないでしょうか。

 

散歩途中のごみ拾いも、夜中のごみのポイ捨ても、誰も見ていない自分一人の行為かもしれませんが、それは、しっかりと見られているのです。自分自身が自分の行いをいつも見ているのです。

 

傍観者としての自分

道行く人が、ごみをポイ捨てしたり、唾を吐いたりするのを見たら、不快に感じることでしょう。キャンプ場で、自分の隣のサイトのキャンパーが後片付けもせず、ごみを放置したまま帰ってしまったら、折角の楽しい気分も台無しになるのではないでしょうか。

 

人は誰でも他人の目を気にします。逆に誰も見ていないと、ささやかな悪事を働いてしまうことがあります。それは、自分の意識が自分の中にあるからです。自分が中心だから、他人のことは気になる一方で、自分のことは気にならないのです。

 

では、自分の意識を自分から離してみたらどうでしょうか。幽体離脱の話ではありません。ビデオゲームの主人公を後ろから見ているイメージです。傍観者の自分が、自分自身の行いを見て不快に思うのだとすれば、それは自分の良心に背いているからです。

 

世の中の中心に自分がいると思っていると、他人の目ばかりが気になってしまいますが、客観的に自分を見ることが出来る人は、他人の目では無く、自分の良心に従って行動するのです。決して自分が世の中の中心などではないのです。