和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

不幸のみちづれ

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つらい経験と不幸せ

先日起こった電車内での殺人未遂事件。重傷を負った被害者について、報道によれば、容疑者はその服装が「勝ち組」っぽいものだったことを理由に挙げているようです。自分よりうまく行っていそうな誰かを傷つけても自分が変われるわけでは無く、結局は八つ当たりでしかありません。

 

過去にも、自暴自棄になった者が無差別殺傷を起こした事件がありました。自分を不幸だと思うのは自由ですが、関係無い他者を自己憐憫のみちづれにすると言う発想は理解出来ません。

 

思い描いたとおりの人生を送っている人はどれくらいいるのでしょうか。私は、能天気な目標を立ててはそのとおりにならず、挫折したり失望したりしながらも、そのたびに気を取り直して生きてきました。

 

「蒔かぬ種は生えぬ」。うまく行かなかったからと、そこで立ち止まってしまっては全て終わり。動き続けなければ、棚の上のぼた餅も落ちて来てはくれない – と私は思います。

 

私がまだ親の庇護下にいた頃、お金の面で苦労をしたことはありませんでしたが、私はそれをありがたいと気づくことが出来ませんでした。その後、親元を飛び出して独り暮らしの苦労を経験すると、お金が無ければ幸せになれないと思うようになりました。

 

一年浪人して大学に入ったものの、サークルや旅行と学生生活を謳歌している同級生を横目に、学費を稼ぐためにやりたいことを我慢している自分が嫌になり、「なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか」と思ったこともありました。

 

学費を稼ぐために苦労していた学生など私だけでは無いはずなのに、私は勝手に自分を不幸だと思い込んでいたのです。

 

その後、就職し、結婚し、子どもにも恵まれ、収入も安定しましたが、今度は心のバランスを崩してしまいました。その時も、私は「なぜ自分だけがこんなつらい思いをしなければならないのだろうか」と自問しました。

 

そんな考え方が間違っていることに気がついたのは、しばらく仕事を休み自問を繰り返していた最中でした。誰かに教えられたわけでも無く、ある日、頭の奥のどこかで、“カチッ”と音がしたような感覚でした。

 

当時はつらいと思っていた学生時代に培った経験。これが就職してからもいろいろな面で役に立っていることを考えれば、結果としては良い経験だったのではないか。仕事をしばらく休むことになったけれども、心身を立て直すためには良いタイミングで小休止が得られたのではないか。

 

つらいと思う出来事が必ずしも不幸なこととは限らない。そう思えた瞬間でした。もう一つ。不調で長い休みを取れたことは、私にとって家族との関わり方を見直す機会になりました。自分にとって最悪と思っていた状況は、実は自分にとって何が大切かを気づかせてくれるものだったのです。

 

その後も、公私に限らず良い時期と悪い時期は波のように訪れましたが、それぞれの出来事と自分の幸不幸とは何の関係も無いことだと考えるようになりました。

 

幸不幸は心の持ち様の問題なので、自分の置かれている状況とは直接は関係の無いことです。もし、今の自分に満足出来ないことが不幸の原因だと思うのであれば、それを何とかするのは自分以外におらず、誰かに責任転嫁できるものでは無いのです。

 

他人の幸せ、自分の不幸

過去の記事でも何度か触れたことがありますが、自分の幸不幸は他人には関係の無いことです。逆に他人の幸不幸も自分とは何の関わりも無いことです。

lambamirstan.hatenablog.com

 

とてもつらそうな人を見て自分の方がまだマシだと思ったり、良い暮らしをしていそうな人を見て自分を恥じたりしても、自分の置かれている状況を変えてくれはしません。幸せ自慢、不幸自慢もまた然りです。

 

自分はこんなに幸せなのだと他人に自慢することに何の意味があるのか分かりませんが、誰かに羨ましく思われることでしか、自分が幸せかどうか分からない人なのでしょう。不幸自慢は、自分以外に“私の方がもっと不幸だ”と名乗り出てくれる人を期待しているのかもしれません。

 

出身校、勤め先、名誉、居住地、収入、貯蓄額、家柄。いわゆるステイタスを示すものはいろいろありますが、その全てが揃っていても、必ずしも幸せの条件を満たすことにはなりません。

 

私のように、前の晩のおかずの残りと塩おにぎりで幸せを感じる人間もいます。簡単に手に入れられるものに感謝することが出来れば、自分の身の回りには小さな幸せがたくさん転がっているものです。自分や家族の幸せは誰かと競い合うものではありません。金メダルも銀メダルもありません。