和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

衰えと成長

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鏡の中の自分

私が中学生の頃でした。母親が洗面所の鏡の前に佇み、頭の生え際を指でなぞりながらため息を吐いていました。当時、母は40に差し掛かったばかりでしたが、白髪が気になるようでした。

 

その頃は、自分もそのくらいの年齢になれば白髪が生えてくるのかと、あまり深く考えもしていませんでしたが、自分が30代後半になると、ちらほらと白いものが気になるようになってきました。最初は白髪を見つけるたびに抜いていましたが、次第にそれも億劫になるほど白髪が増え、無意味な格闘は止めることにしました。

 

普段、自分の顔を見るのは髭剃りの時くらいですが、たまに、まじまじと鏡の中の自分を眺めると、年波に晒された中年の顔がそこにあることに愕然とします。

 

自分もそうなら、他人も然り。久しぶりに知人に会った時に相手の風貌が変わっていると、誰でも相応の年齢を重ねるものなのだと感じる一方で、いざ話をしてみると、そこには以前と変わりない知人がいることに安心感を覚えます。

 

外見の変化は抗いようがありませんが、中身の人間はそう簡単には変わりません。もちろん、痴呆症や器質的な疾患で記憶や判断力が大きく損なわれる可能性もありますが、そのようなことがなければ、体がどんなに衰えても中に住む自分は自分なのです。

 

勉強することの意味

体は、生まれてから20代前半くらいまでに成長のピークに達し、やがて、老化と言う坂道を下って行きますが、中の自分は体とは違い、成長し続けるものだと私は思っています。

 

しかし、体が成長し健康状態を維持するために、適度な栄養や運動が必要なのと同じく、中の自分が成長するには学習と経験が欠かせません。

 

学習や経験など、自分を成長させることに資することを大きな意味で勉強と捉えると、人は日々勉強し続ける生き物だと言えます。

 

勉強とは、学校で習うことだけではありません。自分が関心を持った物事に関する知識を習得することや、意図せず遭遇した出来事から後学のために教訓を得ることも含まれます。お金持ちもそうでない人も、年寄りも若者も、1日の長さは変わりません。仕事に追われで“勉強”する時間なんか作れないと言う人もいるかもしれませんが、自分に訪れる何等かの経験は全て勉強につながると考えれば、周囲に対する自分の目が変わってくるのではないでしょうか。

 

選り好みできる知識、避けられない経験

本や映画などは、自分で選んで読んだり見たりできます。知識として吸収したいものは、自分の意思で思い通りにできることがほとんどです。

 

他方、経験と言うのは、選り好みできるものがある一方で、自分の意図しない形で訪れるものが少なくありません。素敵な出会いや、人生の岐路となる出来事に遭遇することもあるでしょう。反対に、受験の失敗、失恋、仕事のトラブル、身内のいざこざ。その最中にある時、人は苦しみ、もがき、逃げ出したい感情に駆られることもあります。

 

選り好みできない経験ですが、自分にとって良い経験も悪い経験も、全て勉強と思うと“経験の仕方”が変わってきます。

 

私は大学受験に失敗して一浪しました。仕事上のトラブルは数知れず。親や親戚との間のトラブルも経験しました。女性に振られたことも一度や二度ではありません。若い頃は、失敗した自分やトラブルに巻き込まれた自分を恥じたり後悔したりするだけで、できればそんな嫌なことは早く忘れたいと思い、黒歴史を記憶の箱に閉じ込めて、二度と思い出さないようにしようと考えるばかりでした。

 

ところが、歳を重ねるにつれて、かつては思い出したくなかった記憶が、不意に懐かしく思えたり、逆に、誰かをやり込めた“誇らしい記憶”が、穴に身を隠したいほど恥ずかしいものに変わったりすることがあります。年をとっても、肉体の中にいる自分は変わらないというのは、思い、考える主体自体であって、その主体は常に成長し続けているからこそ、かつての記憶の受け止め方が変化していくのでしょう。

 

もちろん、事故や事件に巻き込まれたことによるトラウマは、どんなに時間をかけても決して“懐かしい”記憶になどはなりません。ただ、時間をかけ、その後経験する様々なことから、心の傷を少しでも和らげる術を見出す可能性は残されているのではないかと考えるのです。

 

不意に訪れるもの

経験豊富な人とは、どんな人のことを言うのでしょうか。「私は失敗したことがありません。私の言うとおりにしていれば、万事大丈夫です」と言う人の言葉を私はあまり参考にしません。

 

何事も順調にいっている時は、自分を信じられるため、人の意見に耳を傾ける必要を感じません。誰かに縋ろうとするのは、自分が苦境に立たされ、自分のこれまでの経験では困難の泥沼から抜け出せない時ではないでしょうか。

 

そんな時、多くの失敗を経験し、その中から同じくらい多くの教訓を習得した人こそが経験豊富な人なのではないかと思います。

 

私は、務め先でときたま社外講師を招いて経営セミナーを開催する時には、講師の方に必ず失敗談とそこから何を得られたかを尋ねることにしています。失敗から得た教訓を次のチャンスに活かせる人の言うことは重みが違います。

 

不意に訪れるものは大概悪いことですが、いろいろな分野の人々からの失敗談やそれを克服した経験を聞くことによって、自分の身に何か降りかかった時に参考にできる知見を持っておくということは大切なことです。

 

自分が得たものを贈り物に

以前の記事で、自分の死後について書いたことがあります。

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

私は、死んで肉体が滅びれば、心や記憶は霧消し、自分はこれまで出会った人々の記憶の中でしか生きることが出来ない。そう考えています。

 

自分がこれまで培った経験を子供や後輩に伝えていくことが、年老いても自分が成長し続けるためのモチベーションなのだと思っています。