自分物語のラストシーン

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埃を被ったエンディングノート

今年の初め、妻と私は自分たちのエンディングノートを作ることにしました。

(エンディングノート)

 

その後、なかなか取り掛かれず、コロナ禍の中、足元の生活を考える方に気を取られ、いつの間にかエンディングノートはリビングの片隅で埃を被ったままとなってしまいました。もっとも、エンディングノートは一刻一秒を争って作る必要も無く、気が向いたら再開すれば良いくらいに考えていました。

 

ところが、妻が病気の治療を始めることとなり、私自身の体調不良も重なり、最近になって、夫婦ともども、自分たちの将来 ‐ 老後生活 ‐ に対する考え方を改める必要があるのではないかと思い始めました。とは言え、それは将来を悲観的に見ると言うことではありません。

 

これまでは、子育てを終え親としての役目を果たしたら、後は自分たちの老後生活を如何に充実させるかを考えてきましたが、この頃は、老後生活は自分たちが予想しているよりも、意外にあっけなく終わってしまうのではないか、と言う思いも芽生え始めました。

 

幸いにして、私たちの娘2人は、上はすでに就職しており、下もあと2年したら大学を卒業するので、そこまでたどり着ければ、後は自分たちの生活を考えることに専念できます。

 

今まで私たちは、世の平均余命を考えれば、自分たちの老後生活は長く、どうやって安定した暮らしを続けていくかと言うことを考えていました。

 

しかし、最近思うようになったのは、娘たちが独り立ちし、夫婦2人の生活に戻った後は、健康に過ごせる1日1日が“ご褒美”であり、与えられた日を如何に充実したものにするかが大切なのではないかと考えるようになりました。

 

人生100年時代にあって、私たちはすでに折り返し地点を過ぎています。決してこれからの将来を悲観するわけではありませんが、自分たちの死期は思わぬ形で突然やってくるかもしれない。そうであるならば、20年、30年をどう生きるか考える前に、目の前の1日をどう生きるかを考える ‐ そんな思いを抱くようになりました。

 

二人三脚の生活

思えば、私たち夫婦は性格的にも真逆で、私がアクセル役なら妻はブレーキ役、それでこれまで過ごしてきました。家事も相談して決めたわけではありませんが、どちらかに負担が偏らないように自然に、暗黙のうちに役割分担ができていました。

 

基本的に、家計管理、日用品の在庫管理は妻、預貯金の管理、冷蔵庫の在庫管理は私、と担当が分かれているため、相手に任せられる心地良さがある反面、仮にどちらかが倒れると、とても不自由な生活になってしまうことが心配になりました。

 

夫婦2人での生活を1日でも長く続けたいと言う思いはあるものの、もしもの時に備えて、お互いのやっていることをきちんと理解しようと考え始めました。

 

ちょうど、4月から5月にかけては、妻も私も出社停止や在宅勤務で一緒にいる時間が長かったため、文字通り二人三脚で家事を行ない、独りになっても家事全般をこなせるように努めました。

 

自分にとっての幕引き

二人三脚の家事は、どちらかが病気になって長い間床に臥せったとしても、安心していられるための準備のつもりでした。

 

これは、2人とも病気で気弱になったからと言うことが直接的な動機ではありますが、お互いに安心して暮らせるための備えをしておくことは、そう悪いことではないと思っています。

 

「人生観」と言うほど大それたものでは無いのですが、自分の体調不良や、コロナ禍や、妻の病気など、いろいろなことを考えると、結局、病人であろうと、健康な人であろうと、明日必ず生きていられると言う保証はなく、1日の大切さは誰にとっても同じことだと思います。その大切さを感じられるか否かで、残りの人生の意味が変わってくるのではないでしょうか。

 

もし、自分の余命が後1年だと告げられたなら、自分はどう生きるか。自分の寿命を迎えた時、人生の幕をどう降ろすか。それを考えると1日の重さが分かってくる気がします。

 

死んだ後のこと

私は信心深い人間では無いので、死後の世界などと言うものを信じていません。亡父が枕元に立ったことも無いので、霊魂の存在にも否定的です。

 

それでも、自分が死んでしまったらどうなるのだろうかと考えることはあります。たぶん、自分が死んで、肉体が無くなれば、器を失った心や記憶は霧消し、大切な人との想い出も消えてしまうのだと思います。

 

自分は消えて無くなり、自分と親しい人々の記憶の中でしか生きることが出来ないのだと思っています。家族で旅行に出かけたり、誕生日にお祝いをしたり、そのような思い出作りは、実は自分が記憶として留めておくのでは無く、相手の記憶の中で自分を生かしておいてもらうためのものなのだと思います。また、純粋な気持ちで誰かに手を差し伸べることも、自分が生きていた証を誰かに受け取ってもらうためのものなのではないでしょうか。

 

もしかしたら、自分が死ぬ瞬間は自分では分からないのかもしれません。死んだと言うことを知らないうちに死んでしまっているかもしれません。自分自身の人生のラストシーンを見ることが出来なくても、様々なエピソードは、自分が関係した人々の心の中で再現されるのだと思います。

 

だからこそ、家族であろうと、友人であろうと、自分の目の前にいる相手への言動はよく考えなければと思うようになりました。もしかしたら、それが、自分から相手への最後の言葉になるかもしれないのですから。